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FF7Rは旧神話を解体するか。

 1997年という時代をよく覚えていない。当時小学一年生の自分としてはクラウドよりマリオであり、ファイナルファンタジーというゲームさえ知らなかった。札幌の山間に住んでいるとその時代の感覚みたいなものから取り残されている感覚を覚える。

 翌98年に公開された今敏監督のアニメ映画「パーフェクト・ブルー」では、携帯電話は普及しておらず、一人暮らしの家には固定電話とFAXがあり、インターネットは原義としてのオタクの巣穴で、そしてマッキントッシュは箱だった。最大の経済成長の時代となった昭和は終わりを告げ、平成に突入してから10年弱。なおも技術は先端化し新旧がないまぜに都市化された東京が表現されている。しかし成長に伴う痛みは環境破壊や鬱屈とした空気となって人々に押し寄せた。一人のアイドルに自己投影し、妬みや嫉妬からストーキングに走るサイコスリラーを取り扱った同作においても、それが現実に起こりうるという危険性を示唆したものだと思う。

 ファイナルファンタジーⅦに登場する魔晄都市ミッドガルは、経済成長し都市化された巨大社会において人間の欲望が生み出す歪みを、東京を中心とした当時の都市社会に逆照射したアイコニックな存在である。本作がヒットした背景には、3Dポリゴンで表現されたRPGというトピックもさることながら、天然資源(魔晄)の消費と引き換えに豊かな生活を提供する巨大企業を心のどこかで悪と見る感覚が、図式的に90年代後半の社会の世相や倫理観と一致していたことが大きいのではないかと思う。星の生命の源「魔晄」を吸い上げる魔晄炉を設置し豊かな生活資源(インフラ)に変換する仕組みを作り上げた悪の枢軸「神羅カンパニー」と、それに歯向かうレジスタンス組織「アバランチ」。主人公クラウドが傭兵として魔晄炉の破壊ミッションに赴くことから物語は幕を開けるこの物語は名作と評され、やがて神話と言っても差し支えないひとつの伝説になった。

 それから23年弱。ファイナルファンタジーⅦのリメイクが発売された。容量の問題から原作では序盤にあたるミッドガル脱出までのシーケンスとなる。ボリュームは十分で、筆者もクリアまでに34時間ほどを要した。兼ねてより制作が望まれていた本作だが、世界の状況がこれほどまでに目まぐるしく変化している現在の社会を物語るだけの強烈な神話性を持つことができたのだろうか。

 一通りゲームをクリアして、本作の制作における目標が2つほど見えてきた。ひとつはファイナルファンタジーという定番を活かしつつも(バハムート、トンベリの登場など)原作を忠実に再現しようとする方向だ。それは進化したグラフィックの中でも原作当時の色味や物の質感をしっかり合わせている点や、教会に落ちた直後に扉に近寄ると原作通りレノが「もう少し時間をやるぞ、と」と話すことなど小ネタの再現、そしてスピンオフですっかりクールで根暗なイメージが根付いたクラウドを最新のグラフィックでコミカルに表現することで半ば成功に近付いている。発売前から、後者は女装イベントもあり原作のようなデフォルメのグラでなければスベるのではないかと心配されていたが杞憂だったようだ。また、グラフィックの進化によりざっくばらんとしか紹介できなかった主人公たちの心情をシームレスに繋げ、脇役の感情や表情をうまく描き出すことにも成功している(特に一脇役に過ぎなかった女キャラジェシーをヒロイン級に押し上げた功績も大きい)。

 もうひとつは97年の作品を2020年の作品として再構築(リメイク)することだ。一度作り上げた神話を解体し、新旧を問わずファンが納得する神話を創らなければただグラフィックの進化を証明するだけのハリボテの作品になりかねない。当然、ポリゴンからフルCGに進化したグラフィックではマップ上の記号の意味が変わる。人、武器屋、マテリア屋、アイテムなど一枚絵の上に配置された記号はナビマップに置きかわり、画面の構成はもっと映画的なカメラの視点になる。真上から見下ろす神の視点からクラウドを後ろから追いかける背後霊のような存在に変わる。

   バトルにおいても従来型のコマンドバトルのようには行かない。しかし本作ではコマンドとATBを大胆に取り入れたコマンド(主体の)バトルを実現している。間を埋めるためのアクション性としての回避やガード、攻撃は可能だがコマンド(アビリティ)の活用がメインとなる本作は次世代型のファイナルファンタジーのバトルといっていい画期的な出来である。FF15のようなボタン押しっぱなし、ポーションがぶ飲みゲーと揶揄されることなどもうないだろう。惜しむらくはゲーム全体に配置されているバトルの回数が少なすぎることだろうか。これではRPGとしてのカタルシスに乏しいのは確かだ。

 そしてこの再構築という点で一番肝心になってくる点がシナリオだ。ネタバレになるが、今作では原作に未登場のフューラーと呼ばれるおばけのような見た目の存在がたくさん出現する。シナリオ中結構な頻度で出現し、邪魔をしてきたり助けてきたりと意図がよくわからないが、終盤になって急にエアリスが「運命の番人」だと教えてくれる(なぜ彼女がこんなことを知っているかも考察の俎上に上がっている)。彼らに触れた後、原作で発生する重要なイベントが(メテオがミッドガルに直撃する様、エアリスが殺される瞬間、レッドXIIIが500年後の荒野を駆けている様)時々モンタージュするようになる(原作プレイヤーにとってはメタ的にフラッシュバックされる)。つまりフューラーは97年に筋書かれたシナリオ、プロット(=運命)をクラウドたちが辿れるよう導いている存在だと言える。その証拠に、神羅ビルで殺されたバレット(原作では死なない)を超常の力で生き返らせている。また、最終決戦で立ちはだかる変異フューラー三体の持つ武器が剣、銃、拳とクラウド、バレット、ティファの武器と一致する。まるで運命が決した未来から来た彼ら自身のようである(ここにエアリスの武器が登場しないのは、原作で彼女が殺されるからであろう)。そして自らが滅ぼされる運命にあることに気づいたセフィロス(原作のラスボス)はクラウドに運命を変えるよう促す。結果としてセフィロスの甘言を否定した上で自ら運命を変えるためにフューラーを打ち破る一行。そしてスタッフロール直前では"The unknown Journy Will Continue"の文字が浮かび上がる。

 本作のフューラー、そしてエアリスの発言は非常にメタ的存在として描かれている。エアリスはまるで原作で自分がどのような悲惨な運命をたどるか知っているかのような口ぶりで話をするので、エアリスだけ2週目なのではないか?など既にさまざまな憶測を呼んでいる。着目したいのは、原作のプレイヤーが画面の外からクラウドたちを見ていることを意識したメタ装置としてフューラーとエアリスを配置したことだ。彼らの存在が特異点(Chapter18の題も「運命の特異点」である)となって、それまである意味で2週目をなぞるようにプレイしていたプレイヤーをクラウドと同じ目線に追い立てたのだ。これは原作プレイヤーが鑑賞者から当事者へと立場が変わったことにはならないだろうか。筆者自身もあまりの超メタ展開に愕然とした。

 しかしよく考えてみるとスクウェアエニックスはこの手のメタ展開を既に自らの手でやりつくしてしまっている。「ブレイブリーデフォルト('12/3DS)」やフルCG映画「ドラゴンクエスト ユアストーリー('19)」が筆頭に上がるが、特にユアストーリーでは終盤に「ドラゴンクエストⅤ('92)」のプレイヤーをあからさまに対象としたメタ設定で懐古的なプレイヤーの神経を逆撫でしている(映画内ドラクエの世界は実は映画内の現実世界でプレイされているゲームでしたという残念なオチだった)。メタ世界をもう一段映画の中に作ってしまったユアストーリーと異なり、本作ではプレイヤーに直接新しいファイナルファンタジーⅦの世界を続編で体験してもらいたいという製作者の明確な意図が残る。つまり、続編は原作とは全く異なる物語が展開される可能性が高い。"The unknown Journy Will Continue"と締めくくっているのだから。

 つまり新しいファイナルファンタジーⅦは原作のファイナルファンタジーⅦを旧説の神話として否定することになる。これには悲しむファンもいるだろうが原作がこの世から消されてしまう訳ではない。原作の質感や空気感、面白さは原作でしか味わえない。そこを見抜き、いっそ2020年以降の神話として再構築しようとする製作陣の舵取りは間違っていなかったと思う。現在も様々な憶測を呼んでいる"新説"ファイナルファンタジーⅦだが、今後どのように時代を逆照射していくのか楽しみなところである。

 なお、本作の最大の魅力はエアリスの可愛さにある。原作で微塵も可愛さを見せてくれなかったエアリスだが、本作ではその底抜けの明るさがゲーム中の被災者に、そしてプレイヤーにも癒しを与えてくれる。もしかしたら震災、コロナ災禍で暗く落ち込んでいる日本の世相を一番反映している存在はエアリスかもしれない。

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