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傲慢な自虐  ・西 加奈子「 i 」

 知らない世界で起きた悲劇や惨劇に胸を痛めたことがあるだろうか。
 2001年9月11日にイスラム過激派集団アルカイダによって米同時多発テロが発生した。記憶していることが2点ある。ひとつは当時10才だった自分が飛行機がビルに突っ込んだという事実を看過していたこと、もうひとつは父親の都合でロシアに住んでいた同い年の友人が送ってきた一通のメールだった。彼がメールの文章からいかに事件に対して衝撃を受け悲痛な思いを持っていることがよく伝わってくる内容だったと記憶している。僕は適当にハマってるゲームや学校のことなど冗談混じり、いやほとんどくだらないジョークみたいなメールを返信してほとんど事件のことに触れなかった。折しもテレビゲームや漫画など超非現実的な遊びに没頭し四六時中マリオのことばかりを考えていた僕はその一通のメールにさほど関心も示さず、やはりゲームに夢中になっていたはずである。飛行機の衝突も死という概念が身近に存在していない自分の狭い田舎の世界で深く共感を覚えることにむしろ違和感があり、不謹慎を承知で言うのであれば、同じテレビを通して戦闘機のゲームで敵機を撃ち落としたくらいのバーチャルな感覚でしかなかった。撃ち落とした敵機に対する悲壮感などない。その無関心さに打ちのめされたのは母親の方だった。

 それから「アメリカで苦しんでいる人がいるのになぜお前はゲームばかりしている」と僕からゲームを取り上げ勉強でもしなさい(お前もわずかながらでも苦労をしなさい)、というのが彼女の言い分で、彼女は感動を誘うテレビドキュメンタリーを観るたびに「お前は恵まれている」と同じ言い分で僕を熱中するものから遠ざけた。その反復は時々暴力的な痛み(物理)を伴って「悲劇に対しては喪に服し、習慣を真摯に改めるべし」というこじつけのような教訓と「(比較すると)恵まれている状況にいる自分を恥じる」感覚を僕に植え付けた。

 西加奈子さんの著書「i」の主人公ワイルド曽田アイはこの後者の感覚を持っている。彼女は扮装地帯のシリアに産まれながらも煩雑な手続きを経て”幸運にも”アメリカ人の父親と日本人の母親の養子として引き取られ、小学校の卒業までをニューヨークで過ごした過去を持つ。彼女を養うシッター家族の貧困の様子や格差さえも多様性に取り込まれた学校の中で自分自身が恵まれているとはっきり認識し、自分より恵まれないと自分が意識的に判断した人間に対して引け目や申し訳なさを感じているのだ。

 彼女が成長し大人になった時、東日本大震災で東京在住の自らが被災者となったことでこの感覚は彼女自身の闇の部分として表層には現れなくなってくるのだが、その後の不妊症の判明、体外受精からの流産(恐ろしくあっさりと描かれる)を境に自分自身が真に不幸の渦中にいる人間となり、初めて他人の感覚であった苦しみを自分のものにする(血の繋がらない両親を持つ彼女のコンプレックスが、血の繋がる唯一の存在である子供を渇望するからだ)。その中で自分と向き合う一個人である恋人、高校時代からの付き合いとなる友人の妊娠と向き合うことを経て自分自身のアイデンティティを改めて認識し、初めて世界から切り離されて世界と対峙する勇気を身につけることになる。初めて自分自身が外部のあらゆる社会的因果関係に引っ張られずに自分のものだと(アイデンティティを)認識する。

 誰それが苦しんでいるから自重すべきと言うのは東日本大震災の時にもっとも流行した感覚だったはずで、僕が「悲劇に対しては喪に服し、習慣を真摯に改めるべし」という呪縛から逃れたのはこのころ、大学生の頃だったと思う。札幌から京都に上洛(?)し、外国人旅行客に触れ合う機会も多く良い意味でも悪い意味でも多様性のある京都というまちに感化されたと言っても過言ではない。
 この小説が素晴らしいのは、僕にこのような記憶があったことを思い出させてくれたし、母親からの異常な教育が続いて嫌な思い出しかない(見るもの聞くもの価値観すべてを押し付けられるありがちな教育)幼少時代の溜飲を活字の力によって少し下げてくれることだ。そしてそういった人種の人間にアイは明確にゴールを示している。
 「わたしはここにいる」という台詞に表れているように、アイ(=自分)はいつもちゃんと自分の中にいるはずだ、と伝えている。複雑な出生でありながらもひとりの人間であることを認識していく過程を描いた良作だった。

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