6、事実の一義性と解釈の多義性に基づく、真実の個数に関する考察

読者諸氏は、芳子やサキエが「モブ」と読んでいる部員がいることにお気づきのことと思う。

先に私は、サキエを支持する部員が主にサキエと同じ一年生であると述べた。
他のものは芳子がサキエ以外の役を外した際、出て行ってしまってそれっきりである。
特に2年生の部員達は、
日頃より、後輩のサキエの花のような美しさと、まごうかたなきスター性を、
痛いほど見せつけられており、これまでも心穏やかならざる日々を過ごしていた。
そこに起きた衣装壊乱事件である。
部長の芳子が大勢に反してサキエの肩を持ったものだから、
ここぞとばかりにサキエ憎しの思いを募らせ、演劇部を分裂させ、
部長芳子に反乱の狼煙を上げたのだ。
以来、出て行った部員達は一度も練習に姿を表していない。

さて、モブである。
このモブと呼ばれる部員(名前が思いつかないので、今後もモブとさせてもらおう)だけは
他の部員の例には嵌らない。
彼は芳子と同じ2年生であり、サキエ衣装壊乱事件後、
唯一練習に参加している2年生でもあった。
このモブという男、演劇の才能こそ凡庸であるが、なかなかどうして気骨のある若者である。
何しろ、部長芳子からは「黙ってろ」と罵られ、
後輩であるサキエからも同じような扱いを受けても、一向気にする様子がない。
最初の頃こそモブの表情を伺っていた他の部員達も、
モブがそうしたぞんざいな扱いを意に介さないことに慣れ、
今ではモブが芳子やサキエら中心メンバーにコケにされようが、踏みつけられようが、
もはや気にしなくなっていた。

筆者にしてみれば、仏のように広い心を持ったまさに聖人の鑑のように思われるのだが、
あるいは底無しのバカなのかも知れぬ。
いずれがモブという男の真実であるか、その解釈は読者諸氏に任せるとして、
ともかく物語の進行上重要なのは、全ての2年生が芳子に反旗を翻したわけではなく、
このモブという男の存在が、ともすれば折れそうな芳子の心を支えていた、
という事実である。

筆者はせっかちなので、ウダウダと恋のアレコレを描写することができない。
つまり、芳子はこのうだつの上がらないモブという男を、
次第に男として恋慕うようになったのだ。

才能豊かな女子諸君の中には、身に覚えのある人もいるであろう。
時として、何の見所もない男が、そこはかとなく可愛く見えることがある。
いったいどうしてその男に惚れているのかはわからぬが、
一緒にいると胸はドキドキ、逆光に縁取られたその男の横顔がまるで
ミケランジェロの手による彫刻のように思われてくる。

芳子のモブを見る目が、この一週間の間に熱を帯びてきたのは、
こうした経緯あってのことだった。

これに心をかき乱されたのがサキエである。
もとより役者というものは人間の心理を形を通して扱う人種であり、
芳子の眼差しという形にも芳子の真実があるものと決めてかかっている。
ましてやサキエは天才的女優である。
その読心術は達人の域に達しており、芳子風情の恋心など一発で見破ってしまった。

練習の終わり、サキエが舞台からまっすぐ芳子のところへ降りてきた。
「芳子先輩。モブ先輩のこと、好きですよね。」
この女優、舞台を降りれば取り繕うということがない。
プロというものは、タダで自分の技をひけらかさぬ節度が求められるが、
サキエは気位の高い女優であって、日常に演技を用いぬ徹底した自制心を誇りとしていた。

これに動揺したのがモブで、あわてて
「サキエちゃん、なんてことを。」
と制止するも、
「モブ先輩は黙っててください。」
と、いつものやりこめられよう。
こうなるとチョイ役の肩身の狭さ、結局口をつぐまざるを得ない。

「そうですよね、芳子先輩。」
「そうね。あなたの言う通りよ。」
芳子、心中こそ穏やかならぬものがあったが、気圧されてはいない。
演劇部を統率する部長として、
この厄介な大女優様相手に、まずは五分の睨み合い。

今度は芳子の方から撃って出る。
「でもそれは、あくまで私のプライベートな領域でのこと。
 あなたにとやかく言われることではないわ。」
相手の出過ぎた物言いを、暗に指摘する。

「勘違いしないでください。
 先輩が誰を好きになろうが、そんなことはどうでもいいです。
 アタシとしては、ただちゃんと責任を果たしてもらえればそれで結構。」
「あら、私、責任を果たせていないかしら?」
「果たせていますか?」

また五分の睨み合い。
見ている方が悲鳴を上げたくなるような、耐えがたい緊張感。
講堂の外から、野球部だかサッカー部だかの練習する声が聞こえる。
(イーッチニー、サーンシー、イッチニーサンシーイッチニーサンシー・・・)

芳子が妥協点を探る。
「サキエ、あなたは私が責任を果たせていないと思っているわけね。
 言ってちょうだい。それはどういうことなの?」
「はい。先輩は、演出家として、アタシのことを十分観てくれていません。」
「どう、みんな。みんなもそう思っているの?」
戦況を外から見守っていたはずの部員一同、突然自分たちが戦場にいることを知り、
慌てるより先に思考が停止してしまった。

サキエ、ふっと笑って聞こえるか聞こえないかの声で、
「アタシと喋っているんでしょう。」
と、キツい一撃を加える。

これにはさすがの芳子も精神の均衡を崩された。
畢竟、失うもののない相手とは怖いものである。
読者諸氏も、是非参考にしてもらえればと思う。
戦に臨む時は、もはや何もかも失うつもりでやることだ。

・・・サキエが恋する芳子は、別の人間に恋をしている。
この時のサキエには、もはや失うものがなかった。

芳子は、自分が危険な場所にいることを初めて思い知った。
芝居の成功は、サキエの出来にかかっている。
サキエの能力は申し分がない。
あとは、自分がサキエという素材を存分に輝かせるための工夫を成功させられるかどうか、
というところまで来ている。
ところが、そのサキエと自分の間にある信頼関係が揺らいでいる。
他ならぬ、自分の恋心によって。

ここに、いくつもの物語のバージョンが可能であることを指摘しておく。
恋の三角関係として描くこと。
演劇とは何か、をここで展開すること。
あるいは、この先に起こる事件を、
様々な伏線を用いて面白おかしく展開する推理小説として。

だが、筆者としてはそのどれも十分とは思えない。
あくまで記録として、起こった出来事を報告するに留めたい。

さて、窮地に陥った芳子は、
初めて自分がこの芝居のボトルネックになっている可能性に気づく。
芝居の成否は、今や自分の双肩に託されていると言っても過言ではない。
サキエへの返答を間違えれば、その時点で芝居の失敗が確定する。

「アタシと喋っているんでしょう。」

この一言が、芳子を別の戦いへと誘う。

この記事が参加している募集

恋愛小説が好き

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?