2、愛と演じの共犯的欺瞞について

「K、昨日はごめんね」
 演劇部部長、兼作家、兼演出家、犬飼芳子は律儀な女である。
 自分の犯した非礼は素直に詫びる。
「いいよ、気にしてない。」

ダンス部副部長、Kこと桜井香奈も、さっぱりとした性格であり、これ以上気を使わせぬよう、
あえて軽く謝罪を受ける寛容さである。

二人は高校に入ってからの付き合いだ。出会ってからの期間はそう長くない。
短い付き合いとはいえ、一目置き合い、認め合う間柄で、
二人には、まどろっこしさを嫌うという共通点があった。
年の頃十代の女子達のことであるから、
まどろっこしいやりとりはそこかしこで繰り広げられている。
いかによくできた女子とはいえ、時々疲れることもある。
芳子とKの場合も例外ではない。
そんな時は、どちらかがもう一方のところへ行って時間を過ごす。
不思議なことに、疲れるタイミングは大体同じだった。
愚痴をいうわけでもなく、他愛のない話をするか、あるいは全然話をしない。

クラスが同じになったことはない。どちらも、別に仲の良い友達がいる。

「演劇部ヤバいんじゃない? 本番間近でしょう。」
「うん、今回こそはいよいよダメかも。ついに、最終公演かな。」
「毎回言ってるね。」
「毎回思うんだ、次こそはしっかり時間をかけて準備しようって。でもダメ。
 ダンス部はすごいよね。みんなすぐにフリを覚えているみたいだし、
 本番一週間前にはきっちり仕上げて、調整期間まで取れるんだもの。」
「サキエちゃんは、どうなの?」

サキエこと、神宮寺咲江は、昨日、芳子とやりあっていた1年生である。
芸能人一家に生まれ、幼い頃から、芝居の稽古のみならず、
ピアノ、バレエ、日舞、箏、水泳、花道、茶道、書道、剣道、柔道、合気道、算盤、簿記など、
ありとあらゆる芸事を学び、女優となるべく英才教育を受けてきた。
ハタから見れば高校へなど来ず、そのまま業界へ入れば良さそうなものであるが、
「一般人とのスクールライフを経験し、今後の演技に活かす。」
という甚だ鼻持ちならぬ動機で通学していた。

「・・・」
「やっぱり、難しい子なの?」
「いいモノは持っているんだけどね、今一歩、常識の線を超えられてないな。」
「ふうん。」
「本人も苦しんでいるんだと思うんだけどね。
 ホラ、私の台本って、ちょっととっつきにくいじゃない。」
「かなりね。」
「そう、かなり。で、あの子もがんばってるんだけど、なかなか思うようにならないみたい。」
「珍しいね。」
「何が?」
「芳子がそんな風に言うなんて。」
「弱気ってこと?」
「そうじゃなくて。
 芳子って、あんまり劇団員のこと、褒めたりしないでしょう。」
「ああ・・・。」
「やっぱり、血ってあるのかな。」
「どうだろう。私が確信を持って言えることは、
 サキエにはとてつもなく大きなエネルギーを感じるってことだけ。」

などと話をしているうちに、教室についた。

愛と演じの共犯的欺瞞について、語られていないようなので補足しておく必要があるだろう。

サキエは、芳子に、恋をしているらしい。
このことが、どうして愛と演じの共犯的欺瞞と関係するのか。
恋が愛の方便となりうるものだからである。
つまり、恋とは、愛のつく嘘なのである。

恋とは欲望なので、どこまでいっても自己中心的であるが、
恋の成就に自己犠牲(愛)の演技が必要な場合、人はしばしば愛を演じる。

サキエにはプライドがあり、たとえ恋の相手であっても、
その相手のために自己犠牲に走るつもりはない。
だから平気で芳子にタテつく。
つまり、サキエの恋には、演じとの共犯関係がまだ成立していない。
ここから、愛から切り離された恋が描写される。
次いで、逆説的に、恋から切り離された愛が定義されうるであろう。

愛には、言葉が必要だという。
それは、愛を育むためである。
だが、何のために?
相手が自分を愛しているからだ。
そうでない限り、愛の言葉が利己的に発せられていることになる。
利己的な愛とは、形容矛盾である。

さて、ここで一歩進んで考えてみる。

相手がまだ自分を愛していないとしよう。
そしてこの時、愛の言葉を囁くとどうなるか。
場合によっては、その言葉によって初めて、相手に自分への愛が芽生えることがある。
これは、利己的だろうか?

私はこれを、投機的と呼びたい。
投機的な愛の言葉、というものがある。
読者におかれては、私の用いたこの言葉をよく心にとめておいてもらいたい。

それはともかく、
物語の中で繰り広げられる恋というものは、
じっくりと描写すればそれだけでヒキになるオイシイ材料なわけだ。
この場合、私はサキエの芳子への恋を明かさずにおいて、
読者にアレコレと推測させながら、
勿体をつけて徐々に明らかにしていく、という戦略も採れた。

どうしてあえて、私はサキエの恋を明かしてしまったのだろう。
それは、Kがサキエの恋心に間も無く勘付くからである。
私は読者諸君がこの物語を、登場人物であるKと同じ明晰さで概括できるよう、
あえて小説としての魅力を犠牲にするものである。

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