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【1分読書】『母親』

『母親』
夕時のバスの車内は驚くほどゆったりした時間に満たされている。乗客は誰も話すこと無く目的地へと運ばれる。僕はそんな人達と一体化して、バスという名の一つの生き物になっている。
「布袋」
 車掌が告げる。一人の妊婦が乗車してくる。バスの中には、なぜか異物でも入り込んだかの如く空気が変わる。妊婦は腰重そうに、しかし凛としている。僕はちょうど優先座席に座っていた。隣では小学生がゲームのプレイ画面を付けたまま眠り込んでいる。
「あの」
 僕は席を譲ろうと妊婦に声をかけた。しかし妊婦はそれを目で制すと、口元に人差し指を添えて、僕に何も言わないよう要求した。
「あ」
 僕はどうしても席を譲ろうと言葉を発しかけたが、妊婦のこちらに向けられる表情を前にそれ以上何も言えなかった。
「江南」
 次の駅に着いた。妊婦は僕に目配せをし、サラリとバスを降車して姿を消していった。
僕はその表情に頭を満たされて、夕方が夜に変わっていくのに気づけなかった。

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