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小説『素麺とコーヒーと私達の産地』

『素麺とコーヒーと私達の産地』

                                                                       樋渡 学



































「さら」

 あの時の私を呼ぶ優の声が今となってはもう頭の奥の奥、隅っこに縮こまる深いモヤの様な物になっていた。

私達はまだ学生だった。これから先、大人になって沢山世界が広がってゆく、そうしてみんな各々の道へと別れてゆく、そんな年頃だった。私達はどこにでもある様な理由であっけなく別れてしまった。はたはたと、紙のように薄い何かが倒れてゆくように、静かに崩壊していった生活は、もう後戻りできないくらいに修復不可能となっていた。

空で雷鳴が鳴る。窓の外では、地面を打つ小さな雨の音が鳴っている。六畳一間を私は何年も広いと錯覚しているのだ。

書類の整理をする。学生時代に借りていた部屋の契約書が出てくる。その間取りを眺めていると、過去が押し寄せてくる。笑いも涙もその紙面上では平等だ。ここに詰まっているのは情報以上のものであった。


 学生時代の記憶だ。

優がタバコを軽く噛んでライターの火をつけながら言う。優はタバコを一息ふかすと、ベランダに唾を吐いた。窓際に置かれた炬燵から半身ベランダに乗り出し、一服するのが日常の風景だ。

「次のコンテストなんだけどな、テーマが出てこなくて。というか出てきはするんだけどどれもパッとしなくて。セパレート。昼と夜の境目。どこにあると思う」

 私には赤く光る夕焼けが脳裏に浮かんだ。

「夕方じゃないかな」

「夕方なんて曖昧な時間、どこにあると思う」

「私は」

 少し考え込んでしまう。

 考え込んで目を宙に浮かす私を見つめて優は、タバコを大きく吸う。それを横目に見ながら考える。私は夕方が世界の内側にあると思った。

「さら。今日は素麺だな」

「素麺買ったっけ」

「あれ、買ってなかったっけ」

「私知らないよ」

 二人で顔をみあわせ、抱き合う。抱き合ったまま、不自由な体で食品棚にすり寄る。素麺はちゃんとそこにあった。


 あの時の私達は、消えてしまったのか、それとも忘れ物のように誰からも見向きのされないひっそりとした場所に縮こまっているのか、宇宙の果てまでワープしてしまったのか、遠い未来に走っていったのか。どれも不正解のように思える。

 書類の中に見ない封筒があった。すっかり隠れ込んでいたのだ。表を向けると、私の名が書いてある。

 –中西さら

 中を開ける。そこには優からの手紙が入っていた。

 ―さらへ

  僕たちは、お互いに大きな傷を残してしまいました。それはとてもじゃないけど消えるようなものではありません。それがどんなに大きな傷であろうと決して負けないと決めてきました。僕はさらを想っています。人を自分より大切に思うのって難しい。けど、僕はさらのことが好きです。さらと一緒にぐっすり眠りたいです。いつまでも。

                                                                       優より―

 手紙は全部捨てたと思っていた。まだこんなものが残っていたなんて。私は、涙より先に息苦しい胸の痛みに満たされていた。

 こんなのも捨ててしまえ、という自我は瞬時に包み込まれた。ありがとう。そんな感情に包まれた。もう、何も失わなくていいんだという安心感に包まれた私は、その手紙を抱くようにして部屋にうずくまった。

 雨音が強くなる。立ち上がり、伸びをする。無性に天井に触れたくなる。思い切り跳ぶ。あっさりと天井に触れてしまう。私と優の身長差はさほどなかった。後にも先にも私が身長差を頭の中で比べられる人物は優だけだった。

 土砂降りになったら出掛けるのが億劫になってしまう。その前に家を出たい。コーヒー豆が切れてしまうのだ。私はコーヒー豆の袋を手に取り種類を確認する。いつも豆の種類はバラバラだが今回の豆がとても美味しかったので同じものを買い求めたい。靴箱の上の財布と鍵だけを持って、靴につま先を突っ込み手を借りずに履く。何回も爪先を蹴ると潰れたかかとがじわじわと足を包む。

 この雨が私の無駄な熱を洗い流してくれるのでは、と少しの期待がある。傘を一瞬退かしてみる。冷たい雨が頭皮に届き、額を伝う。再び傘をさす。濡れた前髪をかき上げ額の滴を拭き取る。私はいったい何を求めているのだろうか。人外的なものに記憶の抹消を頼ってしまう。いや、抹消したいわけではないのだ。思い出しても、この胸が張り裂けるような痛みを伴わないように、心を少し強くしたいだけなのだ。人気はない。歩いているとじきに外灯が灯る。車が飛沫を上げて後ろから通り過ぎる。また歩くと前方から車がきて、私は端に寄り道をあける。車の上げた飛沫がズボンの裾を濡らす。湿気で多少濡れたズボンが少し窮屈になってきた。ため息をつく。肩を落としてとぼとぼ歩いていると、後ろから人影が現れた。目の端で捕らえたそれは、私の横に着くと並走する形になった。私が退かなかったのは、それが優だったからだ。傘の中に、何事もなかったかのように優が入る。

「優」

「ん」

 優は何も動じることがなく、昔のままそこで受け答えをする。そんな優に「なんでいるの」とは聞けない。それに、そう聞いてしまったら優は消えてしまいそうな気がする。

「雨ね」

 私は受け入れ、昔のままの気持ちで話す。

「そうだな」

「コーヒー屋、閉まってないと良いけどね」

「スーパーでいいよ、豆は」

「駄目よ。あそこのコーヒー屋さんの豆が美味しいんだから」

「そうか。でも素麺はどうするんだよ」

「今日は素麺、やめにしない」

「えー。素麺の口だったのに」

「よく毎日毎日素麺で飽きないわね」

「美味いじゃん、素麺」

 優はポケットからタバコをとりだし、一息ふかすと私の口に噛ませた。そしてもう一本は自分で噛んだ。私はあれから禁煙している。八年ぶりに吸ったタバコだった。あの時と同じ味がした。空いている方でそのタバコのフィルターを確認すると、もう絶版になったタバコの銘柄だった。不思議に思ったが、もう一度噛み直して昔の煙の味を楽しんだ。私は夢を見ているのか。それとも、私達は別れてなんていなくて、その後の八年間も一緒に過ごしてきたのではなかろうか。色々と考えが渦巻くが、今はそんな事どうでも良い。愛する人が横にいるだけで、ただただ悲しかった。私は何を失ったのだろう。いや、そんなことばかり考えていては後悔をするだけだ。今は幸せを感じているだけで良い。私は今幸せだ。

「あのさー。次のコンテストのテーマが難しいんだよね」

「どんなテーマにするの」

「カオスなんだよ、テーマが。カオス」

「また優らしいテーマね」

「二次元的なものの寄せ合わせにしようと思ってるんだけど、結構既存みたいなんだよね」

 こういった会話も昔のままだ。

 とぼとぼ歩く私達は、終着地点についてしまうのを無意識にさけているようだ。ゴールなんて来なくて良いんだ。この道が、もっと果てしないものであれば良いのに。私は願った。優は何を考えているんだろう。優は、私が作り出した幻なのだろうか。

「優」

 駄目だ。昔のままでいなくては。引き戻してはいけない。でも。

「優」

「ん」

「私達って、やり直せないかな」

 優は笑った。

「何言ってるんだよ、別れてもいないのに。変な事言う奴だな」

 もしかして、今までの八年間はただの夢だったのか。あの時と変わらず、二人は共に歩き、そしてこれからだって。

 優は私の手を取った。

 今まで、もう二度と優に触れることが出来ないと思っていた。八年間、ずっと優の事ばかり考えて前に進めないでいた。なのに今、失ったはずの優がここにいて、私の手を取っている。なんでだろう。なんで私達は別れなくてはいけなかったのだろうか。ふと手紙の内容を思い出す。僕たちはお互いに大きな傷を残してしまいました。そういう事だったのだろうか。私達はただ、傷つけあってきたのだろうか。それだけでは無かったはずだ。温かい時もあった。楽しい時もあった。幸せな時間だった。私達の間に生まれたのは本当に傷なのだろうか。手を握り返したい。でも出来ない。何故か右手に力が入らない。優の温度はそこにあるのに。あれほど、もう一度握りたかった手がここにあると言うのに。

「さら」

 優の声にハッとした。

「さら。手」

 優は、私の手を強く握った。縋り付きたくなる。抱きしめたい。後悔したことを後悔しないために今出来る事を全てしてしまいたい。私はただ目の前の空気を、奥歯に力を入れて見つめる事しか出来なかった。それでも優は私を握る手に力を込め続けた。

「優」

「ん」

「どこにも行かないで」

 言った瞬間とてつもなく後悔してしまった。しかし優はまた笑って、少し不思議そうに言った。

「何言ってるんだよ。当たり前だろ」

 私はタバコの吸殻を口で咥えたままな事に気がついた。唇に貼り付いたタバコの吸い殻が、唇の動きでどんどん剥がれてゆく。恥ずかしくなり、唇に力をいれ、地面に落とした。それを見て優はまた笑う。

優の手を握り返す。温かい。温度がある。そして、何より懐かしかった。とてつもなく懐かしかった。涙があふれて、視界が潤む。傘を持っていられなくなり、泣きじゃくる。自分でも恥ずかしいくらいに。傘を失った私達は雨でどんどん濡れていった。もう、どれが涙か分からなくなっていた。

 濡れながら、優は私のどれとも分からなくなってしまった涙を拭う。

 私の視界はもう、海の中の様で、現実なんてこれっぽっちも見えなくなっていた。拭っても拭ってもキリのない世界の涙を拭う。

「さら」

 優が呼ぶ。

「さら。家帰ったら素麺食べような。素麺素麺」

 目をやっと開けると、雨の中びしょ濡れになりながらスキップして行く優の背中があった。

「俺、素麺大好きなんだよ」

 そう言いながらスキップして行く優の背中を見つめた。

 優。今までごめんね。私は貴方の何も分かってあげられなかった。優。ありがとう。

「素麺素麺」

 そう言いながら、優の背中はどんどん遠ざかっていった。雨に揺られて輪郭を失ってゆく。

 優。大好きだよ。私は貴方と過ごせた幸せな時間を一生忘れない。

 傘をささなきゃ。私は背後にある傘を振り向いて拾いあげた。優の声は、もう聞こえなくなっていた。




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