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『まとまらない言葉を生きる』_「誰か」を憎悪するのにためらいのない社会は、「私」を憎悪する

>「言葉が壊れてきた」と思う。

この本『まとまらない言葉を生きる』は冒頭、この言葉で「まえがき」が始まります。

代官山蔦屋に寄った際、面陳(書店で表紙を見せて陳列)された本書を開いて、目に入った、上記の言葉に、今みんなが感じているザラッとした感覚の答えが、この本にある気がして買って帰りました。


そして、どうだったのか?

結論を言うと、SNSなり動画なり、なにがしか言葉を残して、いつか死んでいくつもりなら、次世代のためにも読んでおいた方がいいと思います。


>「言葉が壊される」というのは、ひとつには、人の尊厳を傷つけるような言葉が発せられること、そうした言葉が生活圏にまぎれ込んでいることへの怖れやためらいの感覚が薄くなってきた、ということだ。

>その理不尽さに対して、吉田おさみは黙っていなかった。心を病むのは〈抑圧に対する反逆〉として〈正常〉なのだと言い切った。この言葉のすごいところは、返す刀で「では異常なのは何? 誰?」という問いを突きつけてくるところだ。


この言葉は、ドラマ『 #ミステリと言う勿れ 』の中で、主人公が「いじめ」について「いじめるてる方を病んでいると判断するそうです」と言ったセリフに通じると思いました。


>この社会は、特定の人たちの存在を拒絶する憎悪の感情を、露骨にあらわすことへの抵抗感が薄くなってしまったように思います。

>誰かに対して「役に立たない」という烙印を押したがる人は、誰かに対して「役に立たないという烙印」を押すことによって、「自分は何かの役に立ってる」という勘違いをしていることがある。

>「誰か」を憎悪するのにためらいのない社会は、「私」を憎悪するのにもためらいがないはずです。


筆者は、本書の中で2016年7月26日、神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」での凄惨な事件について、「実行犯に第一義的な責任があることは間違いない」としながらも、「責任」は、犯人という個人にあるのか。それとも社会という全体にあるのか。それについて悶々と悩み続けることも、「責任」の在り方だと記しています。


ここからは余談ですが、私が最近ディレクションに関わらせてもらった、こし餡のお菓子屋「中山屋」 @nakayamaya.koshian のミッションは、
「優しさをかたちに」です。


創業者の中山氏の人柄や、素材にこだわった商品を体現した言葉でもありますが、スタッフにとっても、とてもいい指針だと思います。
「それ(言葉・態度・選択・決断)は、優しいのか?」
で判断できるように。
私たち社会も次世代に「優しさ」を表現した言葉を残せないか、気をつけたいと思います。


閑話休題、まだまだ本書についてご紹介したいところは沢山あるのですが、ここまで読んでくださった方は、もうご購入いただいた方が、実りが多いと思います(笑)ので、最後に、他者が怖い方へ、もう一つだけ抜粋を。


>荒井君、評価されようと思うなよ。人は自分の想像力の範囲内に収まるものしか評価しない。だから、誰かから評価されるというのは、その人の想像力の範囲内に収まる事なんだよ。人の想像力を超えていきなさい。


これは、著者の #荒井裕樹 先生が恩師からいただいた言葉だそうです。

本というのは、我々読者が出会えない方、ときには、もう亡くなってしまった方のお話を聞かせてくれるんですよね。
だから、本を読むと、出会いが増えた感覚になります。


『まとまらない言葉を生きる』(荒井裕樹)
ぜひ買って読んでくださいませ!


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