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外の世界に強い刺激を求めるのではなく、小さな物事から世界をそこに見出す

自分に対して「なんて、“普通”なんだ。」と思っていたことを以前に書いたが、

春樹さんもそれほど変わった育ちや経験をしたわけでもなく“平凡な少年時代”を送ったらしい。

戦後の混乱や革命も経験していなければ、飢えや貧乏で苦しむこともなく、穏やかな郊外の平均的な勤め人の家庭で育った。特別に幸せというわけではなく、ひどく不幸ということもなく、学校の成績も良くも悪くもなく、これといって特徴のない"平凡な少年時代"を送ったと書かれている。(『職業としての小説家』ハードカバー本P121)

世界の村上春樹と僕を並べてしまっては申し訳ない気もするが、どことなく自分に似ている感じがして共感を覚えた。「あぁ、わかるわかる」という感じで、少しうれしくなったりもした。

そんな春樹さんが二十九歳のとき、「小説を書きたい」と思った。しかし、特別な経験をしているわけでもなく「これだけは書いておきたい!」と思うようなテーマや材料が見当たらなかった。

「これだけはどうしても書いておかなくてはならない!」というものが見当たりません。何かを書きたいという表現意欲はなくはないのですが、これを書きたいという実のある材料がないのです。

村上春樹著「職業としての小説家」ハードカバー本 P121

そこから春樹さんは「特に何も書くことがないからこそ」の書き方を編み出していくわけですが、それと対象的なのが、誰もがその名を知るヘミングウェイ。彼は強い経験をベースに小説を書いていくスタイルだったようです。

ヘミングウェイという人が素材の中から力をえて、物語を書いていくタイプの作家であったからではなかったかと僕は推測します。おそらくはそのために、進んで戦争に参加したり(第一次大戦、スペイン内戦、第二次大戦)、アフリカで狩りをしたり、釣りをしてまわったり、闘牛にのめり込んだりといった生活を続けることになりました。常に外的な刺激を必要としたのでしょう。そういう生き方はひとつの伝説にはなりますが、年齢を重ねるにつれ、体験の与えてくれるダイナミズムは、やはり少しずつ低下していきます。

村上春樹著「職業としての小説家」ハードカバー本 P126

それに対して春樹さんは「とくになにもない」を起点として、小説を書くしかないと思い至ります。

「これはもう、何も書くことがないということを書くしかないんじゃないか」と痛感しました。というか、「何も書くことがない」ということを逆に武器にして、そういうところから小説を書き進めていくしかないだろうと。(中略)
それ(ヘミングウェイのような強い体験をベースとして書いていくスタイル)に比べれば、素材の重さに頼ることなく、自分の内側から物語を紡ぎ出していける作家は、逆に楽であるかもしれません。自分のまわりで自然に起こる出来事や、日々目にする光景や、普段の生活の中で出会う人々をマテリアルとして自分の中に取り込み、想像力を駆使して、そのような素材をもとに自分自身の物語をこしらえていけばいいわけです。

村上春樹著「職業としての小説家」ハードカバー本 P122 P126

「強い経験・重いテーマ」を自分のなかに持ちあわせていなくても、自分の日々の日常のなかにある出来事や光景、出会う人々をベースとすればいい。春樹さんがこう考えていると知ることは、自分を「”普通”の人」だと思っている人間にはある種の救いになる。

ここから思い出したのがジブリの宮崎駿監督の言葉。

彼(宮崎駿監督)が言うには、“ジブリで起きていることは東京で起きている。東京で起きていることは日本中で起きている。日本中で起きていることはたぶん世界中でも起きている”と。みんなが好きなものを知ることで現代が見える。それが作品制作に繋がる。

https://brutus.jp/theartof_working_studioghibli/ BRUTUS

なにも遠くまで「世界でなにが起きているのだろう」と見に行かなくても、自分の周りにある世界を観察していけば、世の中で何が起きているのかもおおかた見えてくる。そういった意味だろう。この記事は、ジブリの「職場としての雰囲気」を大切にしていることが伝わってきて面白いので、ぜひ読んでみてほしい。

その昔、NHKで「驚異の小宇宙 人体」というタモリさんが進行役をつとめる番組があった。NHKアーカイブで視聴することができ、YouTubeでも一部を見ることができる。

正直、中身をしっかり全部見たわけではないが、人体の内側を探っていく旅は、たしかにまるで外側にある宇宙を探索していくようだった。

それは先述の「外側の強い刺激」を求めて外へ向かう意識と「日常のささいな出来事」から内側へ向かう意識の対比で、矢印がまったくの逆であるように見えながら、それがぐるりと一周していくと、結局はどちらからのアプローチでも世界が見えてくることに近い。

外の世界に強い刺激を求めずとも、小さな物事からそこに世界を見いだすことができる。小さな出来事からでも、この世界の素晴らしさや面白さを見いだしていくことができる。小さな世界に宇宙を感じるような視点。それこそが人生を豊かにもする。

ちょっと視点を変更すれば、発想を切り替えれば、マテリアルはあなたのまわりにそれこそいくらでも転がっていることがわかるはずです。それはあなたの目にとまり、手に取られ、利用されるのを待っています。人の営みというのは、一見してどんなにつまらないものに見えようと、そういう興味深いものをあとからあとから自然に生み出していくものなのです。

村上春樹著「職業としての小説家」ハードカバー本 P128

面白い芸人の周りだけに、面白いことが起きているわけじゃあない。切り取る"視点”が面白いから、それが面白くなっている。

世界はつまらなそうに見えて、実に多くの魅力的な、謎めいた原石に満ちています。小説家というのはそれを見出す目を持ち合わせた人々のことです。そしてもうひとつ素晴らしいのは、それらが基本的に無料であるということです。あなたは正しい一対の目さえ具えていれば、それらの貴重な原石をどれでも選び放題、採り放題なのです。

村上春樹著「職業としての小説家」ハードカバー本 P131

鋭い感性を持つアーティストも、心に響く言葉を生み出すコピーライターも、”普通の日常”を過ごしている。しかし、そこにある自分にとっての小さな”さざなみ”に遭遇したときに、それをスルーして流してしまわずに、ふと立ち止まって考えてみる。「これは、いったい何なんだろう…」と。

たとえあなたの手にしているのが「軽量級」のマテリアルで、その量が限られているとしても、その組み合わせ方のマジックさえ会得すれば、僕らはそれこそいくらでも物語を立ち上げていくことができます。

村上春樹著「職業としての小説家」ハードカバー本 P125

”普通”と聞くと、ほぼ日の糸井重里さんの言葉を思い出す。コピーライターとして時代を築いてきたといっていい糸井さんは、僕らから見ると「すごい人」。“普通ではない”鋭い視点とそれを表現する言葉の力を持っている。しかし、糸井さんは「普通であること」について、こう語っている。

やればやるほど、普通の人になっていく。それがコピーライターという職業じゃないかな、とこの頃思うようになった。あえて言うならば、どんどん余計な筋肉がなくなって、今流行りの言い方で言えば、インナーマッスルみたいなものだけで、自分を立てていっている。普通の人以上に普通のことを考えられる。今日いただいたホールオブフェイムは普通の人の証。これをもってさらに磨きをかけた取り柄のない人になっていこうと思う。普通の人でも何でもできるっていうのが僕の一つのコンセプト

AdverTimes(アドタイ)

自分の”普通さ“に辟易して、”あの人みたいになりたい”と思ってしまうことがある。

でも、目を向けるべきは、
いまここにある日常。
そこにいる自分。
自分が感じていることを、つぶさに見ること。

どうやら、それでいいみたいです。



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