見出し画像

僕らの感性。思い出す未来。意思ある選択。

「かもめのジョナサン」の読書会が始まった3日目は、Nさんが興奮気味に「あ!!!気づいた!」というインスピレーションのシェアから始まった。そしてそのまま、せいじ先生との気づきの対話へ。その記録。
(※最後に、ある書籍の紹介もしています)

Nさんの気づき

かもめのジョナサンがアメリカで出版されたのが1970年。
1970年は戦後25年。大阪万博が開催された年。
Nさんは当時6歳だった。万博には5回行った。

各国で万博が開催されていた。
それが日本でも開催された。
これから行くよ!というムード。

その後、1973年にオイルショック。
トイレットペーパーを買い占める。
今の現代とはまた違った閉塞感があった。

そして、五木寛之さんが「かもめのジョナサン」を
創訳した本が、1974年に日本で出版された。

かもめのジョナサンのストーリーはこの後、
ジョナサンが神格化されていき、
禅のような流れに入っていく。

物事の流れ。
偶然に見えて、偶然はない。
起きるべきタイミングに起きる。

これまでの僕らは流れていって、
流れた後に「あ、こんなことが起きたのか」と
後から受け止める過去形の流れだった。

しかし現在は、スマホが出てきて、
「自分の感覚」と「他人の感覚」が
リアルタイムに近く感じられるようになった。
これは「そういった感性」を手に入れたとも言える。

数十年前は、世界の動きを感じる術がなかった。
ほとんどの人が「自分の周りの世界だけ」で
人生を終えることがほとんどだった。
こういうオンラインの音読会なんてありえなかった。

来年、大阪万博が開催されるのが「2025年」。
「1974年」とは違う文脈のなかで開催される。

僕たち「日本自体」が、
「かもめのジョナサン」なんじゃないか。

敗戦国として戦後を過ごしてきた日本は、
自己肯定感も低く、自ら命を断つ人も多い。

僕らがジョナサンリビングストンに
ならなきゃいけないんじゃないか。

若い世代が中心となって、
「食べることばかりを意識して働く」のではなく、
「祭を起こす」こと。
それが大切なんじゃないだろうか。

これを押さえた上で、これから
「かもめのジョナサン」を読んでいくことが
大切なように思う。

これからの僕らが、
大国の中で埋もれていくのか?
少子高齢化が進む状況下で、どうしていくのか?

2025年の前の年である、今、
この「かもめのジョナサン」を
みんなで読んでいこうとしている。

その流れをあまり深読みしすぎてもよくないけど、
いまこの物語を読むということは意味深いように思う。


せいじ先生のコメント

必然的に起きる。

起こることは全て偶然だが、
それを偶然だと思っているのは、
「思い込み」のループにいる。

「思い込み」のループから
「考える」ループに入ると、
全然違うループに入る。

「偶然性」を
「必然性」だと感じるようになる。

そこに何があるのか?
「選択」がある。

ただなんとなく「流れに流されて」飛ぶだけなのか?
スピードを上げて飛ぶということを「選んで」やっているのか?

選択する、選ぶということ。
それを自分がやったかどうか?

この音読会にも「選んで」来ている。

もちろん、食べていくことはバカにしちゃいけないし、
手に職をつけることも大切。

ただ、「みんながやってるからやる」というのではなく、
お前はこれを「選んで」やっているのか?ということ。

選択してやったのか?
流れに流されてやったのか?

岡本太郎さんの「芸術は爆発だ」の顔も、
選んで「あの顔」を選択的にやったのだろう。


Nさん

戦後80年の来年に向けて、
せいじ先生の言う第3フェーズへ。

「個人」でありながら
「他者」を意識する。

少子高齢化で国力が落ちて、外資が入ってきて、
日本だけど、日本ではなくなっていくのか?
協力して「日本」でありつづけるのか?

日本であり続けるための要素はある。
「おかげさま」
「もったいない」という
日本固有の”感性”。
それを大切にしていけるか?

京都駅の周辺はほとんどが
外資系のホテルになってしまったというニュースがあった。
景観条例で高さのあるホテルを建てられないから
経営が厳しくなりやすいという事情もある。

ある意味では外資の力はありがたくもあるが
それだけにはならないようにしていきたい。

宮崎駿監督の「君たちはどう生きるか?」
これからの日本がどうなっていくか?は、
これから、どう生きていくか?に、懸かっている。

せいじ先生

「選択」というのは「言葉」。

最初は「思い込み」の状態。
1人の思い込みで、寝言を行ってるようなもの。

考えるフェーズに入ると「意味」が出てくる。
「私はこう思う」という仮説が生まれてくる。

第1フェーズからは「私は抜ける」と言って、第2フェーズに行く。
第2フェーズから第3フェーズに行くには、冷徹なるものが必要。
それが「選択」。

第2フェーズでは自分の好き勝手にやってきたが、
そこには他者との関係がなかった。

第3フェーズに入ると、
空があって、水があって、羽があって、仲間がいて、
それのおかげで自分がいるんだ、ということが意識化されてくる。

こういうことがあるから
今の自分があるんだという
「意味」を意識するようになる。
そこには「言葉」がある。

自立しているけれども、つながっている。
つながっているけれども、自立している。

Nさん

僕にとってはそれが映画をつくること。

ネアンデルタール人や
クロマニヨン人もいたなかで、

ホモ・サピエンスには、
認知革命が起きて、
イマジネーションする力が生まれた。

物語をつくる力が生まれ、
貨幣経済が生まれて、
1万円の原価は22円なのに
1万円だと思っているのは物語の力。

ホモ・サピエンス全体が
第3フェーズに移行しようとしているのかもしれない。
ユングの集合的無意識のようなもの。

村上春樹さんの「くぐらせる」ということ。
河合隼雄さんが研究していたこと。
せいじ先生が探求していること。

物語を「物語ること」が重要。
「自分の物語」を語りながらも、
その物語が「みんなの物語」とも共通していく。

せいじ先生

物語、フィクションが重要。
物語は「妄想」ではない、「ビジョン」。

自分の知っているファミリアな集合体だけのつながりではなく、
物語を通じて、コンフォートゾーンを越えた人たちとつながっていく。
まさにこの音読会が100人を越えてつながっているように。

「選択」という機能が働いてつながっていったときに、
とんでもないことになっていく。「文化」になっていく。

この音読会は、
たまたま集まってきた偶然性から生まれている場だけど
これは必然ともいえる。

1万円のお札というのはストーリー。

チンパンジーにバナナと1万円を見せたら
バナナを選ぶよね。

1万円を選ぶのは人間だけ。
その物語、虚構のなかで生きている。

第3フェーズに行くのか?
それは我々の「選択」による。

自分の好き勝手にやることではない。
「協力」して、
「共創」していく世界。

Nさん

「言語」が大切であると同時に
「言語」から離れていくようなものでもありますよね。

せいじ先生

エモーショナルインテリジェンス。
考えて、感じるのではなく、
感じて、考える。

Nさん

英語に置き換えられない日本語がある。
「うまみ」「あわい」「おかげさま」「もったいない」。
そこにある”感性”。

「あわい(あわひ)」とは?
1 物と物とのあいだ。
2 事と事との時間的なあいだ。
3 人と人とのあいだがら。 相互の関係。

あわいとは?意味・読み方・使い方 - goo国語辞書

せいじ先生

「うまみ」は、
私のところにきてフランスパンを食べたらわかるよ(笑)
(先生はご自身でフランスパンを窯で焼かれている)

「あわい」という言葉は、
意味の対象がいろんなものに適用できる。
それが「第3フェーズ」。

「まぁなんとかなるだろう」で流れで進むものじゃない。
「命をかけてやるんだ」という「選択」の累積。

まさみんのすごいところは、
「ついてこい」のフォローミーなリーダーシップじゃない。

「私が感じていること」をシェアしていくリーダーシップ。
こんな人は見たことがない。

そして実は、みんなが「ミニまさみん」になっているんだ。
それぞれが、自分の感性で受け取ったものをシェアしていく。

Nさん

それは、日本の役割になってくる。

せいじ先生

選択ありきの世界になってくる

まさみん

それって「開運モンスターの表紙よね!」
「選択」の象徴的な表紙。

せいじ先生

自分だけの好きな世界でやってるんじゃない。
この音読会だって、それぞれの「選択」で来て、飛んでるんだよ。

Nさん

一人ひとりの力を認識していくことが大切。

まさみん

四角大輔さんの「超ミニマル主義」の音読から始まって、

次に「超ミニマル・ライフ」を読んだ。

「超ミニマル・ライフ」のなかで紹介されていた
村上春樹さんの「職業としての小説家」を読んで、

春樹さんの思考について触れた後、「職業としての小説家」よりも前に書かれ、この本の原点ともなっている「走ることについて語るときに僕の語ること」で走ることの本、身体の本を読んだ。

Nさん

「ここで思考や精神だけではなく、
肉体についても触れておけたのはよかった。」

まさみん

歩さんと話して
「かもめのジョナサンは読んどかな!」という話で
いまこうして読む流れになっている。

この音読会は、
来てもいいし、
来なくてもいい。

かもめのジョナサンの冒頭を読んでいる段階だけど、
ジョナサンはいろんなことを経験しようとしていて
それを命がけでやっている。

ジョナサンは「飢えながらも試していった」という一節がある。
「急降下でどこまでスピードを出せるのか」を
「試したい」という気持ちが湧いてきて、それをやっている。

せいじ先生

それも「選択」してやっていること。

彼は周りを「バカにしたりはしない」。
「お前ら食べてばっかりで、なんでもっと速く飛ぼうとしないんだ」
なんてことは言わない。

それは、第3フェーズに入ると、
「あなたがいてくれるから自分がいるんだ」
というリスペクトが湧いてくる。
その状態だから言わない。

ミニマルというのも「選択」が入っている。
「最適な状態」ってのはどういう状態なんだ?と考えて選んでいく。

「苦しく必死の命がけ」ではなく、
ミニマルに向かって、最適で最高の状態に向かって、
「楽しく命がけ」がやれるんだよ。

まさみん

もしこれから読んでいくなかで
「わからない… モヤモヤする…」ということがあったら、
それはぜひ教えてほしい。

そこのモヤモヤには、
未来の可能性や気付きの種が眠っているから、
それを言うことによって、
種が発芽してみんなで育てていける。
だから、ぜひ教えてほしい。

せいじ先生

「モヤモヤ」というのは、
「新しいはじまり」の胎動。

まさみん

この前、喜多川泰さんに聞いた話で、こんな話があった。
「物語というのは、あったらいいなを形にしていることが多いんだよ」と。

「あんなこといいな。できたらいいな。」
その想像が、創造を生み出していく。
物語を読むことって、未来を創造していくことなんだよ、と。

ノウハウ本やビジネス書もあるけど、
それは「過去の実績」が書いてある。

「物語」には「未来が書いてある」。
その物語から「何を感じて、何を思い描くか」。

せいじ先生

物語というのは「未来の記憶」なんだ。
物語を通じて未来から「未来の記憶」がやってくる。
絶妙なるシンクロニシティが起きてくる。

* * *

この最後の話から連想したのは、「『思い出す』だけで、人生に奇跡が起こる」というタイトルの、この本。

以前に、安藤美冬さんが「おすすめ書籍」として紹介していたことを機に、購入して読んだ。

「未来」を「思い出す」ことをしてみると、浮かび上がってくるものがある。そんな内容の本だが、そう言われても、にわかには信じがたいだろう。

僕も半分はそう思いながら、半分はなんとなく同意していた。だからこそ、買って読みたくなったのだ。

そして、安藤美冬さんは2022年にサンマーク出版から「ノウイング〜未来に導かれる生き方〜」という書籍を出したりもしている。

自分を深く知ったとき、〝未来〟は向こうからやってくる。
あなたの人生に「パラダイムシフト」が起こる本!

イチロー、タモリ、村上春樹、ポール・マッカートニー、J・K・ローリング……。
これらの人たちに共通する、ある「感覚」とは何でしょうか?

それは、自分がこれから歩んでいく未来、自分がこれから生み出す世界を「すでに知っていた」ということ。
彼らはある意味において、未来が「見えていた」のです。

それはけっして特別な感覚ではありません。
あなたのまわりにも、のちに結婚する相手と出会った瞬間に、「電流に打たれたようにそのことがわかった」という人、あるいは根拠も実績もないのに「このプロジェクトは成功する」「この商品は売れる」という確信をもっていた、という人がいるのではないでしょうか?

そのように未来に起こることを、あたかもすでに体験したように〝知っている〟こと。
その感覚を本書では、〝ノウイング〟という言葉を用いて表現しています。

目標をしっかり定め、それを実現するために全力で進んでいく、というのがこれまでの「目標達成」のセオリーでした。
しかし、そのように目標にたどりつく人はほんのひと握りです。

頭でひねり出し、無理やり設定した夢や目標は、本来あなたが進むべき道ではないことが多いのです。

「目標は立てるものでなく、見えてくるもの」————〝ノウイング〟の世界を知ると、人生のあり方、生き方が大きく変わっていきます。
未来からやってくるメッセージを受け止め、未来に導かれて生きるようになるからです。

「ノウイング」書籍紹介から引用


物語を通じて、未来から「未来の記憶」がやってくる。

物語は、僕らの「未来の記憶」を呼び覚ますための触媒なのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?