2月23日は令和時代初の天皇誕生日となる。忘れてはいけない。なぜ平成の天皇誕生日12月23日に東條英機を処刑したのか。その真相を追い謎を解き明かしたい。

 2月23日は天皇誕生日である。令和時代になって初めてこの日が祝日になった。平成時代は、現・上皇の誕生日が祝日であった。

 だが12月23日は呪われた日でもあった……。

 なぜか?

 終戦から3年後、皇太子15歳の誕生日12月23日に東條英機が処刑されたのである。平成の天皇が背負っているこうした歴史について、結局、テレビは何も伝えなかった。

 戦争と災害への巡礼の旅、平成の天皇の使命は大きくこの二つだった。

 いまはすっかり忘れられているが、戦後、昭和天皇への戦争責任を追及する空気は潜在していた。310万人の自国民が犠牲になったということは、親戚の誰かが死んでいたからだ。国際世論も厳しいものがあった。

 GHQ司令官マッカーサーは日本占領統治に昭和天皇が不可欠であることを理解していたが、国際世論はヒトラーとヒロヒトを区別できていない状態だった。

 GHQは急いで新憲法を起草し、昭和天皇をシンボルと位置づけ、極東軍事裁判では不起訴とした。その代わり4月29日の天皇誕生日に東條英機らA級戦犯を起訴した。そして5月3日に開廷(翌年、憲法記念日とした)し、昭和23年12月23日皇太子の15歳の誕生日に、東條英機らA級戦犯7名を絞首刑にした。

 平成の天皇は、こうした歴史を心に刻んで生きた。

 正田美智子との結婚に新聞は「平民」出身と書いた。皇族・華族ではない国民からお妃を迎えるにあたっては慶応義塾塾長小泉信三の深い配慮があった。

「ご成婚」はテレビの普及とかさなり、“軽井沢のテニスコートの恋”は妃殿下の人となりもあってミッチーブームが起きるほどの大イベントに発展した。ある意味ではこれで天皇家と国民の再契約が成就したといえる。

 だが戦争責任への意識は、皇太子から消えてはいない。美智子妃殿下との巡礼の旅は、天皇に即位するずっと前、皇太子時代から一貫して強い意志で続けられてきたものであった。

 日本は災害列島である。雲仙普賢岳噴火、奥尻島津波、そして阪神淡路大震災、東日本大震災など多くの犠牲者を出した。被災者だけでなく難病や障害を抱えた人々、弱者に寄り添うという姿勢も一貫していた。

 平成の天皇・皇后ご夫妻は象徴としてのテーマが明確にあった。

 令和の時代、新しい天皇はつぎのテーマを模索するなかで存在感をどう表現するか、まさに「新製品」の開発に直面することになると思う。国民もまた「新製品」を模索する責をともに負うことになる。

 以下、『ラストニュース』で、なぜ未来の天皇誕生日に、東條英機を処刑したのか、その真相を追い謎を解き明かす。


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(第2話はこちらから)

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