粗忽長屋

 広辞苑で「自分」と引くと「おのれ、自身。自己。」とある。「おのれ」を引くと「自分自身」とあった。「自身」には「じぶん。みずから。」とある。それ以上の参照をやめた。


 粗忽長屋という古典落語がある。江戸の寛政期(1789-1801)に元ネタができたらしい。
 浅草の街で身元不明の行き倒れがあり、人だかりができている。そこへ八五郎が通りかかり、倒れているのは自分の友人である熊五郎であるという。群衆は、身元がわかったと落ち着きかけたが、その後の八五郎の発言で皆呆れ果てる。八五郎は、家にいるであろう熊五郎にこのことを知らせてくる、あいつは粗忽者だから自分が浅草で行き倒れになっていることを気づかずに家にいると言うのであった。
 そして呼び出された熊五郎自身も、自分が浅草で行き倒れになっていることを理解できないままに受け入れてしまう。自分自身で引き取って帰ろうとしながら「抱かれてるのはたしかに俺だが、抱いてる俺は誰だろう。」というオチで終わる。

 

 自分というものを考えるのは案外難しいように思う。今考えている自分という認識はそんなに歴史の長いものではなく、ある種の思考のフィルターに過ぎないのかもしれない。他人に厳しい人は自分にも厳しい。逆もまた然り、という傾向があることも無関係でない気がする。境界線は曖昧である。

 自分、というものをどのようにとらえるか。これは一つの重要なテーマで、社会問題化する精神的不調に対してなんらかの打開策を用意してくれるように思う。

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