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救済の形:ジュリアン・グリーン著『モイラ』を読んで

 久しぶりにこちらへ投稿します。

 実は本州に住まいを移しました。北の大地とは対照的な、残暑激しい土地と、そこに根付く独特な文化に戸惑いながらも何とかやっています。

 不便で仕方なかった雪ももう見られないと思うと名残惜しくなるように、日盛りにアスファルトの溶けるにおいも、いつかは好もしいものに変わっていくことでしょう。

 更新があいてしまったのは忙しかったからというのもありますが、小説を書いていたためです。
 こちらでは瀬那祈という名前で活動しておりますが、来栖翠という別の名義でも執筆をしており、そちらの作品を書き進めておりました。もちろん瀬那名義で書いている作品の執筆も続けておりますので、近々お知らせできることがあるかと思います。

 読書のほうは相変わらず、読みたいものを読みたいときに読む、という日々です。仕事が忙しかったりプライベートが忙しかったりで、時間がとれないこともあるのですが、そういうときはかつて読んだ本を読み返すようにしています。

 最近読んだのは、ジュリアン・グリーン著『モイラ』です。

 リンクを見ていただいてわかるとおり、現在は絶版となっている作品です。私が倉橋由美子の作品をこよなく愛することは以前にもお伝えしましたが、彼女の作品にジュリアン・グリーンの小説が登場することから興味を持ちはじめ、いくつかの作品にあたったところ、のめりこんでしまったものです。
 引っ越しの整理のために本棚の隙間があいたので、このたび全集を取り寄せるにいたり、今いちど本作を拝読しました。

 モイラ、という名前を聞くと、まず何を思い浮かべるでしょうか。私は森茉莉の『甘い蜜の部屋』に登場する少女モイラを真っ先に想像します。あるいはギリシャ神話に詳しい方なら、運命を司る三女神のことを思い浮かべるかも知れません。実際、この『モイラ』というタイトルは作中に登場する女性の名前でもありますが、同時に運命という意味も持っています。

 物語は、主人公であるジョゼフ・デイがとある大学町の下宿に住み始めるところから始まります。
 田舎町から出てきたジョゼフは敬虔なキリスト教徒であり、将来は聖職者となって多くの者たちを救済することを夢見ています。赤毛で背が高く、美しい青年であるジョゼフ。彼は毎日聖書を広げ、神への祈りを捧げて、禁欲的な生活を送ります。酒や煙草を嫌い、夜の街で遊ぶといったことはしません。とりわけ性的なことがらを異常なまでに嫌悪し、友人のデーヴィドが結婚する予定であることを打ち明けたときなどは、思い直してくれと説得するほど異常な執着を見せるのです。
 ジョゼフにとって、女性に対する愛は肉体的な愛に直結します。それゆえデーヴィドがいくら許嫁との清廉潔白な関係性を説いても聞く耳を持ちません。ジョゼフは肉体的な愛を憎悪し、それゆえに女性に対するありとあらゆる形の愛情を否定するのです。しかしそれは、裏を返せば肉体的な愛に異常な関心を寄せているということになる。ジョゼフはそのことを薄々理解しています。惹かれている。だからこそ憎悪する。憎悪すると、なお惹かれる。そうした負の連鎖が彼の心のなかで続いているようです。

 そんなジョゼフのもとに、モイラが現れます。下宿の女主人であるミセス・デアの養子である彼女はふしだらな、"身持ちの悪い女"と噂され、ジョゼフは出会うよりも前から彼女に嫌悪感を抱いていました。ですがこれもまた、嫌悪するほど執着している、ということになります。ジョゼフが使っていた部屋がもとは彼女の部屋であったことを知るや脳裏に邪な空想が浮かび、やがて本物の彼女に出会うと、曖昧であった憧れがはっきりとした輪郭を持つ欲望へと変わっていくのです。

 ところで、このジョゼフにはある種の軽率さがあります。彼は世俗の色に染まりきった大学町の住人達と距離を置いていますが、その反動か、気を許した相手には自分の心の内を不用意に打ち明けてしまうのです。ここでいう相手というのは先に述べたデーヴィドであり、ときには彼が制止するのも無視ししてジョゼフは自らの欲望を吐き出してしまいます。同じような軽率さを持つ人物として下宿人のサイモンが登場しますが、彼に心の内を明かされることをジョゼフはひどく嫌います。これはジョゼフに自分自身が見えていないことを示唆しているのでしょう。

 肉体への欲望。そして他人を救済するという聖職者的な行為への異常な執着。そういったものをジョゼフが軽はずみに打ち明けるたびに、私は、「そんなことをわざわざ口に出さなければいいのに」と思ってしまいます。しかし同時に、口に出してしまいたくなる気持ちもわかる気がするのです。ジョゼフは他者を、とりわけ道を誤っている(と彼が思っている)人々を救済したいという強い意欲を持っています。ですが肉体的な愛への欲望や、己の内に潜む獣のような一面を吐露するとき、本当に救いを必要としているのがジョゼフであることに読者は気がつくでしょう。彼はその欲望がやがて破滅を生むであろうことを予感していますが、積極的に救済を求めることはしません。あくまで彼は、自分自身が救済される側ではなく救済する側であると考えています。

 そんな彼を、周囲の人間達は意図的にせよそうでないにせよ、破滅の道へと誘っていきます。それこそ、運命的とでもいうかのように。大学町に住む者たちは、下宿の女主人であるミセス・デアにおいてさえ、ジョゼフを悲劇に誘導するかのような言動をとります。作中、荒野でキリストが悪魔から受けた誘惑の話が引用されますが、この大学町でもジョゼフは周囲の人間から悪の道(と彼が思っているもの)への誘惑を受け続けるのです。そして、その誘惑の仕上げとして登場したのが、かのモイラでした。

 モイラは素行の悪さを原因に別の町の学校へ通わされていましたが、大学町に戻ることとなり、そこでジョゼフと出会います。混血の少女である彼女の顔を一目見たジョゼフは自分の好みではないと断定しますが、その意思に反して彼の心はむしろ彼女にとらわれてしまいます。またモイラも、ジョゼフのジャケットを床に放って拾わせたり、彼の部屋の鍵を胸の谷間に入れてそれを取るように誘惑したりと、扇情的な言動を繰り返します。
 しかし、彼女はそればかりの人ではありません。誰にも打ち明けられない本当の姿があり、それを"身持ちの悪い女"の仮面によって隠しているのです。物語の終盤、彼女の苦悩が象徴されるシーンがあるのですが、私は読んでいて胸が締めつけられる思いでした。ジョゼフが"打ち明ける"という危うさを持っているとするならば、モイラは"打ち明けない"危うさを持っており、二人ともに心の奥底では救済を求めています。そんな二人が出会ったこともまた、運命と言わざるを得ないでしょう。

 本作はその引用のされ方も相まって、ファム・ファタール的な女性のために男性が破滅する話と見られがちですが、個人的には救済の意義を問う、とても宗教的な話であると感じます。このような文脈において救済という言葉を用いると、天国のような死後の世界を連想する方もいらっしゃるかもしれません。ですが、私たちが生きられるのはこの現実世界だけです。神の思し召しにせよそうでないにせよ、救済というものがあるのならば、私たちは現実世界を見ている目でそれを発見し、現実世界を聞いている耳でそれを確かめなくてなりません。その難しさと尊さを、ジョゼフとモイラの物語はよく教えてくれます。

 絶版で入手が難しくはありますが、興味のある方は手に取っていただけると幸いです。

 

  

 

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