花蕊の下に冴えて在るもの:瀬戸内寂聴著『花芯』を読んで

 昨朝目が覚めると外が薄い雪化粧でした。夜中のうちに結構降ったのでしょう、家の前に白く積もっているのを見ていると街も心も一気に冬めいてくるようです。
 根雪とまでは至らぬために、昼過ぎにはほとんど綺麗に融けてしまいましたが、そう遠くないうちに本格的な冬が到来することと思います。

 そんな風で、世情と寒さに家の戸をしっかり塞がれているものですから、することと言えばやはり小説を書くか本を読むかしかなくて、そちらの方面ばかり捗る三連休でした。

 今回拝読したのは瀬戸内寂聴氏の『花芯』です。

 この『花芯』は氏が得度する以前に瀬戸内晴美名義で書かれた作品です。結婚して子どもにも恵まれ、紋切型の幸福な家庭にある園子が、夫の上司と惹かれ合ったことをきっかけに乱倫へ至る軌跡を描いた物語で、そのセンセーショナルな内容は氏が「子宮作家」などというレッテルを貼られるきっかけにもなりました。
 そのほかにも、五目の師匠と弟子の恋愛とその顛末を描いた『いろ』、情夫への愛が冷めてゆくさまを繊細に描く『ざくろ』、性に対して奔放な中国人学生曲愛玲と彼女に依存する女教授みねの関係を主人公が第三者的な視点から観察する『女子大生・曲愛玲』、夫と情夫の子を堕胎した女性の回顧とそこに潜む聖職者的な悲しき愛情を表現した『聖衣』の四作とあわせ、計五作をまとめた作品集として出版されています。

 この「子宮作家」という言葉が出版から六十年以上が経ったいまでも本作に取り憑いていることに驚くとともに、これがまったくのレッテルであるということを声を大にして言いたい気持ちもないではないのですが、それは多くの方々のご高覧によってすでに証明されていることでしょうからここでは差し控えたいと思います。

 実は瀬戸内寂聴氏の作品を読むのがこれが初めてで、今回この本を手に取ったのも、ある友人との会話のなかで偶然氏の名前が出てきたのがきっかけでした。
 最初のいちページを読んだ瞬間に、出会うべき本に出会ったと感じました。「子宮作家」と呼ばれていた事実については以前から聞き及んでいましたが、まず言わせていただくならば、私はそういったワードに惹かれて本を選ぶということをしません。私は前評判や世間の評価とは独立した立場で、気になった小説を好き勝手に読み続けている人間だと、少なくとも自分ではそう思っています。
 それに私は読もう読もうと思っているうちに今になったということがありません。気になった本はすぐに買いますし、買わないということはその時点では気になっていないということなのだと決めこんでいます。気になった作品をメモに控えておこうということもあまりしません。日常的に書店に足を運ぶと、たいていの場合、今気になっている本のほうから私に見つけられてくれるので、こちらはそれを手に取るだけです。そこで出会わなかった本は、気にならなかった本ということになります。瀬戸内氏の作品にしても、かのレッテルの話を聞いて気になったのであればそのときに出会っていたし買っていたと思います。そうではなく今選び取ったということは……とまあそういう理屈です。
 これが一種の思い上がりであるとはわかっているのですが、この方法で出会った本には不思議と外れがない気がします。あるいは私なりの願掛けのようなものなのかもしれません。

 話を『花芯』に戻さなければなりませんね。正直なところ、物語を理解するためには実際に作品を読み、その後に控える川上弘美氏による解説を読めばじゅうぶんという感はあります。
 川上氏は解説のなかで、これらの作品に登場する女性は「女の特質」をきっちり備えた女を完璧に演じきっており、その完璧さがかのレッテルを生む要因になったのではないか、という趣旨の話をしています。この意見は腑に落ちるところがあって、作中に出てくる女性たちは表面上は淫蕩と罵られるような行為に耽っていても、丁寧に読み解くと非常に奥行きのある人間として描かれています。そしてその奥行きのなかには、ありとあらゆる女の特質が確かに詰めこまれているようです。

 そもそもこれらの物語はすべて、とても丁寧に書かれていることが一読してわかります。どこがどういう風に丁寧なのだと言われると、例を挙げることはできなくもないですが、直感的に丁寧なのだとわかるのです。
 丁寧な文章というものに当たると、読むほうも丁寧になります。ページをめくる指がゆっくりになり、一語いちごを飲みこむのが惜しいとばかりにしっかり咀嚼する。そんな読みかたに自然となってゆくのです。少なくとも私はそうだと感じます。これも思い上がりでしょうか? そうだとしたら、ゆるしてください。
 それから言い訳がましいようですが、丁寧さよりも簡潔さやスピード感が重視されるべきジャンルや作品というのもあって、そちらも私は好んで読みます。どちらが優れているということもないですし、どちらが好きかと言われると、その時々によると答えます。同じ上がって下るのでも、観覧車とジェットコースターにはそれぞれに違った良さがあるものです。

 丁寧な語り口で描写されるために、女性たちの姿が脳内に生々しく浮かばれてくるということはあるかもしれません。
 ただそれとは別に、登場人物たちの持つ"冷静な視点"が私を打ち震わせました。
 瀬戸内氏の描く女性たちはその行いだけに注目すれば淫蕩な生活に溺れた者と見做されるでしょう。ですが作品を読み進めてゆくと、彼女たちが自分自身と他人を一歩引いた視点で冷静に分析していることがわかるでしょう。
 面白いと思ったのは、一人称視点の作品であっても、他人の内面にかんする描写、しかも核心をついた的確な描写が見られる点で、そこには観察者の絶対的な自信のようなものが感じられます。
 五作品の主人公はみな、程度の差こそあれそうした視点を持っていて、それが最も顕著にあらわれるのが『花芯』であったような気がします。

 かように冷静な視点を持った人間というのはそういるものではありません。稀有で、おそるべき人といってもいいでしょう。
 そんな視点を持った女性が、自己と他人、すなわち世界そのものを冷静に観察し、考察した結果、淫らな生きかたを選び取ってゆく。その過程を丁寧に描いた作品を、やはり丁寧に読んでいると、自分の心のなかに不安の種子が芽吹くのを感じます。
 真面目に働いて、恋をして、結婚して、家庭を持ってという既存の幸せ、私たちにとって最も馴染みのある紋切型の幸せの欺瞞を、紙片のなかに生きる女性たちに淡々と暴かれてゆくような錯覚に陥るのです。
 この冷静な視点があまりに強力すぎて、私は読んでいて息が詰まる思いでした。氏が「子宮作家」などと呼ばれるに至った最大の原因はここにあるのではないかとさえ思います。このあまりに冷静で、的確で、強力すぎる視点を自らの内に匿い続ける園子、彼女の宿命のいかに凄まじく、おそろしいことか。そこに思い至ると、『花芯』の最後の一文の意味が生々しく浮かび上がってくるようです。

 また、園子は周囲からどのような目で見られようとも気にしないといったような超然的な考えかたを持っていて、それがなお難儀でした。
 人が誰かを指さして非難するとき、指をさされた本人はさあ大変ですが、それ以外の人間は気楽なものです。自分にも当てはまることを言われていたとしても当事者ではないから肝を冷やす必要はなく、ただ土俵の外側から好き勝手に言っていればよいわけです。
 園子の超然的な視点と、彼女が行き着いた超然的な淫蕩生活は、超然的であるがゆえに誰に対する非難や暴露にもあたりません。彼女は誰も気にしていないのです。ですが誰も気にしていない人のことを、みんなは気にします。彼女を目にした人たち全員が、自分を指さされたような気持ちになるでしょう。これって私のことかもしれない。そうした小さな不安が集まって、ひとつの大きなレッテルになるということもあるかもしれません。

 兎にも角にも、唯一無二の経験を与えてくれる一冊でした。氏の別の作品も読んでみたいと思うとともに、この所感を読んで『花芯』が気になったという方は、ぜひ手に取っていただければと存じます。

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