封鎖されたのは:張愛玲著『傾城の恋 / 封鎖』を読んで

 北国に住んでいるのですが、今年はいつもと違う冬です。

 雪の多い地域では根雪という言葉がよく使われます。降ってすぐ融ける雪とは違って、春まで融け残る雪のことなのですが、いつもは十一月のうちに根雪を見るはずが、今年は十二月に入っても舗道のアスファルトが露わになったままでした。
 コロナウイルスのことを考えると寒くならないほうがよいのでしょうか。しかしながら雪のない十二月というのもしっくりきません。

 雪国の人間は、雪に苦しめられ、また雪に癒やされるのでしょう。毎年、雪の降り始めには憂鬱よりも安堵が勝ります。今年もちゃんと冬が来て、季節が巡っているという実感を雪は与えてくれるのです。

 月曜からぐっと冷えこんで、通りにも雪が積もりましたので、おそらくこのまま根雪になるのではないかと思います。ようやく冬が来たな、といった感じです。

 こういう寒い日は家で読書に限るということで、コーヒーを飲みながら、途中だった本を読み終えました。

 張愛玲氏の『傾城の恋 / 封鎖』(藤井省三氏訳)です。



 張氏は現代の中国文学を代表する作家です。物故者ではありますが、その作品は中国内外を問わず高い評価を得ており、私も名前だけは聞き知っていました。

 そんなおり、新聞で氏の作品が紹介された記事を読み、これはせっかくの機会だから読んでみようと思い至った次第です。

 紙面では表題作である『封鎖』について紹介されており、日常的に"封鎖"される上海の街はコロナ禍の現代にも通じるものがあるという締めくくり方がされています。

 まず封鎖とは何かという話ですが、作品が執筆された1943年当時、上海は日本の間接統治下にあり、様々な理由で街の特定の区画が封鎖されることがあったそうです。しかもひとたび封鎖されてしまうと、解除まで数日を要することもあるというのですから驚きです。

 表題作である『封鎖』は、この封鎖によって足留めを食った電車内で繰り広げられる、男女の出会いと交流を描いた物語です。

 男は名を呂宗楨と言います。彼は妻から頼まれた包子(パオツ。中華まん)を買って帰る途中なのですが、まずこの包子にかんする描写に心を奪われました。

"ソーッと新聞紙の一角を開けると、中を覗いた。真っ白なヤツが、どれも麻油の香りがする湯気を吹き出している。新聞紙の一片が包子に貼り付いていたので、注意深く紙を剥がしたところ、包子に活字の跡が残り、字はすべて裏返し、鏡に映っているかのようだったが、彼は根気良く、顔を近付け一字一字判読した"

 私は本場中国の包子というものを食べたことはないのですが、それでもその温かさ、匂い、そして質感までもがはっきりと思い浮かぶようです。封鎖に遭って、いつ外に出られるかもわからない状態で迎える空腹と、手元にある包子。裏返した文字を注意深く読むのは空腹を紛らわせるためでしょうか。私は封鎖というものに遭ったことはありませんが、この空腹という生活に寄り添った感覚があることで、未知なる封鎖にも臨場感がもたらされるようです。

 そして同じ電車に、ある女性が乗り合わせています。名は呉翠遠。彼女は良い子として育ち、良い生徒として生活し、今は学校で英語の助手をしています。しかし、良い子の仮面の下には別の顔を隠しているのです。車内で作文を添削している彼女は、都会の悪を糾弾する男子学生の、文法的に正しいとは言えない作文にAの評価を与えますが、そこには彼女を取り巻く環境が大いに関係しているように思われます。

"この男の子は彼女を広い見識の持ち主と見ている。彼女をひとりの男性と見做し、信頼している。彼女に一目置いているのだ。翠遠は学校ではいつも誰からも見下されていると思っていた――校長からも、教授、学生、用務員からも……"
"呉家は新式の、信心深い規範的家庭である。家では精いっぱい娘に勉強させ、一歩一歩と這い上がらせて、頂点にまで上らせた……(中略)……しかし家長は次第に彼女に対する興味を失い、むしろ最初から勉強は手抜きして、時間を遣り繰りして金持ちの婿さん探しをすれば良かったと思っているのだ"

 彼女は家でも、学校でも、職場でも見下され、いじめられていて、それは言ってみれば世界から目の敵にされているようなものです。今もこういう状況がなくなったわけではないでしょうが、本書に収録されているほかの作品を読んでみても、当時の女性の生きづらさを思わずにはいられません。

 そんな彼女と、あの包子の彼が、ふとしたきっかけから電車内で出会い、惹かれ合うことになります。彼は自分を縛り付ける家庭に嫌気がさしています。妻とも親とも折り合いが悪く、そこから逃れたいという潜在的な欲望がありますが、子どももいるためそういうわけにもゆきません。だからこそ、目の前の彼女が魅力的に感じられてしまうのです。
 いっぽう彼女は、自分に強いることしかしてこなかった世界への憎しみから、奥さんもいてお金がない彼と恋に落ちる想像をします。
 二人は互いに惹かれ合っているものの、そこに至る過程がまったく異なるのです。それをあらわすかのように、二人の会話はどこか噛み合わず、差し挟まれる二人の心理描写もちぐはぐな感じがします。
 封鎖された電車内で行き場を失ったために、本来交わることのなかった二人が、あるいは二個の思想が交わってしまった。私は『封鎖』を読んでそのように感じました。またそう考えると、物語の最後に紡がれる印象的な一文、あの文の意味もより深まる気がします。

 コロナ禍の状況と照らし合わせて読むとまた感慨深くなる本作ですが、それ以上に考えさせられる作品であったと思います。
 彼は、彼女は本当は何から封鎖されているのか。その封鎖が解かれることを願っているのか、いないのか。いろいろな想像を膨らませながら読んでいただきたい一作でした。


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