神々の戦い:倉橋由美子著『城の中の城』を読んで

 いろんな国へ渡っても、最後は生まれた場所へ戻ってくる鳥のように、気がつけば倉橋由美子氏の作品を読み返している私がいます。

 氏の作品はその時期によって文体から受け取るイメージが異なり、初期には翻訳文学を思わせる鉱物的な文章であったのが、作品を追うごとに柔らかく、植物的に変わってゆきます。そして最後の小説作品である『酔郷譚』に至っては、酒をテーマにした短編集ということもあってついに水のように滑らかな文体の境地へと至るのです。この絶妙な変化もまた、倉橋文学の魅力のひとつと言えます。

 今回ご紹介するのは、以前紹介した『夢の浮橋』の続編である『城の中の城』です。桂子を主人公とする桂子さんシリーズのひとつとなります。

※前作『夢の浮橋』の続編という都合上、前作の結末が明かされることとなります。前作をまだお読みになっておらず、結末を知りたくないという方はここで引き返していただければと存じます。





 この桂子さんシリーズは現在、小学館のP+D BOOKSから紙と電子書籍両方の媒体で出版されています。倉橋由美子氏の作品という括りでは、『夢の浮橋』と『城の中の城』、そして『交歓』という桂子さんシリーズ三作のほかに、泉鏡花文学賞を受賞した『アマノン国往還記』を含めた計四冊です。
 そのほかにもこのレーベルは昭和の隠れた名著を数多く出版しており、しかも一般的な文庫本と比べても価格が手ごろということもあって、贔屓にしています。本作『城の中の城』も400ページ近くあってこのお値段ですので、安い部類に入るのではないでしょうか。
 また、名前にあるP+Dというのはペーパーバックとデジタルを意味しており、紙媒体の本は洋書で見られるようなペーパーバックのスタイルとなっています。あのいい意味での安っぽさが気に入っており、エコロジーの潮流に反することをわかっていながらも紙の本を買わずにはいられません。

 さて、話を『城の中の城』に戻しましょう。本作の内容を簡潔に言い表すならば、家庭内宗教戦争となるでしょう。なお、前作では桂子という表記でしたが、本作においては桂子さんと表記されているため、以降は桂子さんに呼称を統一したいと思います。

 桂子さんは大学卒業を機に所属ゼミの助教授である山田信氏と結婚。現在は智子さんと貴君という二人の子どもに恵まれる三十歳の母です。夫である山田氏も教授の職に就き、家庭は順風満帆かと思われていましたが、実は山田氏が渡仏中にパリで洗礼を受け、カトリック信者になっていたことが判明。キリスト教に対して強い疑念を抱く桂子さんは山田氏の裏切りともいえる行為をゆるせず、二人の確執はやがて夫の棄教か夫婦の離婚かという宗教戦争へと発展してゆきます。

 読んでいてまず思うのは、桂子さんのキリスト教に対する疑念のいかに強力たるやというところです。ここでは疑念という言葉を使っていますが、実際には敵意と称すべきもので、作中キリスト教への辛辣かつ過激な批判が随所に見られます。私も含めてほとんどの読者は、桂子さんのキリスト教批判に驚かされるとともに、なぜ彼女がキリスト教に対してこうも強い反発を抱いているのだろうと疑問に思うはずです。

 しかし読み進めるうちに何となくわかってくるのは、本作が『夢の浮橋』の続編であるからには、やはり前作との強い繋がりがあるらしいということです。

 連作における作品どうしの繋がりには弱い繋がりと強い繋がりがあると思います。
 弱い繋がりとは、登場人物や基本的な設定は前作から引き継いでいるものの、テーマ的にはほとんど独立した作品として続編が描かれるというもの。
 対して強い繋がりとは、人物や設定といった表面的なものだけではなく、テーマやモチーフとでもいうべきものが物語の水面下で一つの大きな海流となって作品どうしを結びつけているような関係性です。
 ただしいろいろな作品を読んでいると、人物や設定は全く異なっているのに海流の存在は感じられるといったものもあり、単純に二極化できるものではありません。
 それから、強い弱いという言葉を使うと、弱いと悪いのかと思われるかもしれませんが、そのようなことはありません。弱い繋がりを持ったシリーズは、作品ごとに異なる世界や景色を見せてくれるので素敵だと思います。

 話が逸れてしまいましたので、『城の中の城』へと軌道修正しましょう。

 本作と前作『夢の浮橋』のあいだに強い繋がりがあるとすれば、それは何でしょうか。桂子さんの優雅で超然とした態度でしょうか。それとも社会や知識人階級への風刺的な視点でしょうか。個人的にはやはり『夢の浮橋』の所感で述べた神化のイメージに思い当たります。



 以前、『夢の浮橋』の所感において近親相姦を神化のイメージと結びつけましたが、実は前作のラストでは耕一君はまり子さんという女性と結婚することとなり、なおかつ桂子さんと山田氏、耕一君とまり子さんという二組の夫婦のあいだでもやはり交換遊戯が行われることとなります。
 といっても具体的な描写はなく、果たしてその遊戯がうまく行くのかどうかというところで前作は終わりますし、本作ではその顛末らしい内容があっさりと触れられています。

 しかし、本作において桂子さんは神とは言わないまでも、常人ならざる物の見方、作中の語を用いるならば端倪すべからざる人物として描かれるのです。
 作中にはいわゆる知識人と呼ばれるような人たちが出てきますが、彼らのほとんどは桂子さんの審美眼には敵わず、ときに失望とともにこき下ろされます。その痛烈な批評こそ、本作の醍醐味でもあるといえるでしょう。

 ですが、彼らは本当は知識人ではなく、ただの俗物と評されるべき人たちなのでしょうか。そこのあたりは判断に迷うところですが、私としては彼らのレベルが低すぎたというよりも、桂子さんのレベルが高すぎたという説を推したいと思います。

 桂子さんは知識が豊富であるばかりでなく、普通の人では会得できないような超然的な価値観を持ち、ときに不遜とも思えるその姿を見ているとどこかの多神教の神様と見まがいそうになります。
 前作ではまだ神になりきれない少女であったはずの桂子さんが、本作でこうした端倪すべからざる人として描かれていることを、母になったからという事実だけで片付けるのは少々強引な感じがします。

 前作を桂子さんが神になるかどうかの物語とするならば、本作は神になった桂子さんの戦いを描く物語になるのではないでしょうか。そう思うと、桂子さんがキリスト教に対して敵意を抱いていた理由も何となく説明がつく気がします。

 自分も神様であるところの桂子さんは、もともと一神教であるところのキリスト教とは相性がよくないのです。
 といっても、多神教と一神教がうまく棲み分けを行って共存してゆくことはあって、自分のテリトリー外でキリスト教が勢力を拡大していることについては桂子さんも意に介しません。
 ですが、夫がキリスト教徒になってしまったとあっては話は変わります。桂子さんの城のなかに、イエス・キリストが自分以外は神と認めないというスタンスで上がりこんできたわけですから、これは一刻も早く追い返さねばと臨戦態勢になるわけです。

 桂子さんがキリスト教に対して並々ならぬ敵意を持っている背景には、こういう考え方があるのではないか。などと想像を巡らせながら本作を読み進めてゆくと、いろいろなことが見えてくるようです。
 作品の持つ性質からしてどうもキリスト教批判というところばかりに目が行きがちな本作ですが、それは本作の本質ではないように思います。WhatではなくHowの部分に過ぎず、少なくともキリスト教批判に主眼をおいた作品でないことは一読して明らかでしょう。

 作中、桂子さんの父君が娘と山田氏の夫婦関係について語る場面があります。父君は桂子さんに"お前はなかなか守りの堅い城だね"と言い、対して桂子さんは山田氏のほうも城を気づいていたと返します。それも、城の中にもう一つの城を築いていたと。ですが桂子さんは城の中を神域化してしまったように見えます。常人には城を攻め落とすことはできても、神域を侵すことはできません。

 個人的には、神的な厳しさと母としての大らかさが共存していることで桂子さんの魅力がうんと増したように思います。前作を読んで桂子さんのその後が気になったという方は、ぜひ本作も手に取っていただけると幸いです。

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