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『我と汝』パレスチナ問題における「我―汝」の関係は、ユダヤ神秘主義とイスラム神秘主義の比較から生まれるのではないだろうか(人間学)

 ブーバーは私たちが接する世界は2つに分かれるという。ひとつは、「我―汝」(Ich-Du)という対話という関係性の世界、もうひとつは、「我―それ」(Ich-Es)という我の経験を対象とする世界がある。
 そして、「我―汝」という関係の以下の3つの領域から成り立つ。

 1)自然との共同生活
 2)他人との共同生活
 3)霊的存在との共同生活

 1)の自然との共同生活には、1本の木であれ、動物であれ、「それ」として捉えるとそこには対話はなく、切り倒し、殺処分をする。しかし、「汝」と捉えれば、木の生命力からも、ペットと対話する関係性となる。2)の他人との共同生活を社会共同体で考えると、都市も会社も人為的な選択意志により分離された「我―それ」となる。人間本来の自然な本質意志による家族や共同体は「我ー汝」の関係性となる。3)は神と我の関係性が「我―汝」となるフェーズ。

 この本での発見は、ユダヤ人で、ユダヤ教を熟知するブーバーは、3)霊的存在との共同生活においての「我―汝」の関係をキリスト教で、以下のように表現している点だ。

 イエスの「我」は、「汝」を聖父と呼ぶ場合、必ず自分が「聖子」となり、それ以外のものとはならないような、絶対的関係におかれた「我」であった、と。つまり、明らかにブーバーは、イエスをひとりの人間として捉え、キリスト教の「三位一体」の立場とは異なるのだ。人間イエスは同時にユダヤ人イエスであるというユダヤ教のスタンスを「我―汝」の関係から解説することで、偉大なユダヤ人イエスをユダヤ教の側に奪還しようとしているとも言える。

 さらに、ブーバーは意識していないが、彼の学んだキリスト教やユダヤ教の神秘主義ではないイスラム教の神秘主義であるスーフィズムには、修行の最終段階で、日常的な「我」が消滅し第2の「我」、つまり「神的我」(人間的「我」が完全に消えた状態)が出現すると表現されるフェーズがある。

 井筒俊彦氏によるとこのフェーズは、老荘の「道」、仏教の「空」、易の「太極」、大乗仏教の「真如」、禅の「無」、ヒンズーの「梵我一如」、ユングの「存在の元型」と同じだ、と。道元の言葉を借りると「仏道をならうというのは自己をならうなり。自己をならうとは自己を忘るるなり」の「無の境地」が、1神教であれば「我」が「神的な我」となるペルソナ転換として意識するのか、ブーバーのように「汝」と意識するかの違いはあれども、霊的存在との共同生活を表しているのだろう。

 井筒俊彦氏がイスラエルのユダヤ教神秘主義であるカバラ(ブーバーも学んだ)の研究者に対し、イスラームのスーフィズムの講演を行ったところ、「あまりにも共通点が多い、もっと早く知りたかった」と感想があったという。つまり、イスラエルにおけるユダヤ教、イスラームにおけるイスラム教は、「神秘主義」の領域では共通していて、それはさらに神の存在のない仏教でも、根源は共通している。これらの考察から、同じ1神教同士であるイスラエルとパレスチナの共生を考える上で、ブーバーの「我―汝」の関係は、それぞれの神秘主義者同士であれば、すぐに共鳴共振するのではないか、というのが私の仮説だ。

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