見出し画像

『対話のレッスン 日本人のためのコミュニケーション術』「会話」と「対話」は違う、差異を前提としたコミュニケーションが必要(マスクドニード)

 平田オリザさんは、『わかりあえないことから』(講談社現代新書)を読んで以来、注目している著者だ。なぜなら、彼の主張は多文化共生時代に必須になるという直感があるからだ。

 著者が海外の大学で、「対話」と「会話」の違いを講義すると、それを考えたことがなかったという反応があるという。近代演劇は「対話」を要請するのである。「対話」(Dialogue)とは、他人と交わす新たな情報交換や交流のことである。「会話」(Conversation)とは、すでに知り合った者同士の楽しいおしゃべりのことである。おしゃべりには、他者に対して有益な情報はほとんど含まれていない。演劇においては、他者=観客に、物語の進行をスムースに伝えるために、観客に近い外部の人間を登場させ、そこに「対話」を出現させなければならないという。

 西洋の演劇は、遠く2500年ほど前、ギリシアの地で誕生した。そのころギリシアでは、民主制という新しい政治体制が誕生しつつあった。「演劇」と「民主制」が、同じ地で、ほぼ同時に生まれたのは偶然ではなかった。新しい政治体制では、王や貴族ではなく、その共同体の成員すべてが自分たちでなにごとも決めなければならなかった。そこではじめて、ひとりひとり異なった考え方を持っていることに気づいたのである。

 筆者の主張は、以下に凝縮されている。

「21世紀のコミュニケーションは、『伝わらない』ということからはじまる。対話の出発点は、ここしかない。

私はあなたは違うということ。

私とあなたは違う言葉を話しているということ。

私は、あなたが分からないということ。

私が大事にしていることを、あなたは大事にしてくれているとは限らないということ。

 そして、それでも私たちは、理解し合える部分を少しずつ増やし、広げて、ひとつの社会のなかで生きていかなければならないとうこと。

 そしてさらに、そのことは決して苦痛なことではなく、差異のなかに喜びを見いだす方法も、きっとあるということ」

 「会話」と「対話」は違う。SNSで行われているのは会話だ。

 対話は、演劇がそうであるように、差異を前提としたコミュニケーションがビルトインしている。

 私たちの社会では、 社会的弱者と言語的弱者はほぼ等しい。したがって、論理的に喋る能力を身につけるより、論理的に喋れない立場の人びとの気持ちを汲み取れる人、弱者のコンテクストを理解する能力を持った人が必要な時代、それが21世紀なのだ。

Creative Organized Technology をグローバルなものに育てていきたいと思っています。