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『沈黙 SILENCE』イエズス会のマーケットエントリーに無理がある(日本の歴史)

 田正浩監督の「沈黙」を観てみた。マーティン・スコッセッシ監督の「沈黙」も観たので、「沈黙」には詳しくなった(笑)

 今回観ていて思ったのは、この物語が成立するのはカトリックだからではないか、ということ。調べてみると原作者の遠藤周作はカトリック。

 なぜなら、もともとセム族の宗教は、信仰と行為の規範の分離はあり得ないため、ユダヤ教もイスラームも戒律=信仰となるが、キリスト教にはその考えはない。それはキリスト教を世界宗教にしたパウロが「外なる人」としてローマ法に従いローマの市民権を持ち、「内なる人」としてキリスト教の信仰を守る、と「内的」と「外的」を分けたからだ。
(創始者イエスは、「カエサルに税金を収めることは良いか、悪いか」という二者択一に対し、巧みに逃げて答えなかった)

 ならば、マリア像やキリスト像、あるはロザリオを踏もうが、ツバをかけようが、信仰とは関係なく、「内なる人」の信仰は守られる訳だ。実際に、日本の役人も「単なる形式だ」と背中を押す。しかししかし、踏み絵をした本人が踏み絵をしたことで信仰を棄教してしまう。これはパウロ教的にはおかしいのである。

 カトリックは教会の中を見ても、比較的偶像物が多く、ご丁寧に14ステーションまで飾ってある。ジュネーブのカルヴァン教会を訪れたことがあるが、ここにはまったく宗教的な飾りがない。エルサレムのユダヤ教の総本山もそうだ。
 そういう偶像物に対して価値を見出していなければ、単なる偶像物に対する踏み絵を行うことと信仰心はまったく関係がない。
 この映画をプロテスタントの人が観たときにどういう感想を抱くのか、それが知りたいものだ。

 また、当時のイエズス会の方針が、まるで1980年代の外資系IT業界のカントリーマネージャーの考えに似ているとも感じた。つまり、本社(ここではポルトガル)で実行し受け入れられたものは「すべて正しい」、という前提に立って日本にマーケットエントリーしようとしているのである。
 そういうカントリーマネージャーは最近は見かけることがなくなったが、やはり日本にAdjustし、マーケットエントリーするのが正攻法だと思う。そういう意味で「死海のほとり」「イエスの生涯」「キリストの誕生」で示した遠藤周作の日本にAdjustさせたイエス・キリスト像であれば、キリスト教はもっと日本に浸透したのではないだろうか。(例え、外人から異端と言われようが)

 ちなみに、イスラームはマーケットエントリーする地域の土着の宗教を否定せず、それをイスラームにAdjustする「スーフィズム」があり、まず先にそれが浸透し、次に正規のスンナ派が欲しくなる、という流れで浸透するのである。インドネシアがまさにそのプロセスで世界最大のイスラームの国となった。

Creative Organized Technology をグローバルなものに育てていきたいと思っています。