村瀬秀信さんインタビュー 前編(全2回)
村瀬秀信さんインタビュー 前編(全2回)
野球ならびにチェーン店グルメなどをテーマにした著作を多数出されているライターの村瀬秀信さんとは、10年以上前から交流があります。
『4522敗の記憶 ホエールズ&ベイスターズ 涙の球団史』文庫版ではベイスターズファンでもないのに解説文を書かせていただきました。
村瀬さんとお会いすると、出した本に関する話や、取材を進めている現在執筆中の本の話が中心になるわけですが、その中に挟まれるご自身の昔話に「えっ!?」となる話がちょいちょい出てきます。
「4年くらい日本を放浪していた」とか、「四万十川で死にかかった」とか。
そういうわけで、村瀬さんにご自身の来歴をお聞きするインタビューをさせていただきました。(伊野尾)
【前編 放浪と物書き志望】
─村瀬さんは1975年生まれ、神奈川県茅ケ崎市のご出身ですよね
「そうです。茅ヶ崎で小中高まで通って」
─そこから大学へ
「いや、大学は行ってないんですよ。18歳で自営業をやっていた実家の経済状況が厳しくなって」
─高校卒業して、どうしてたんですか
「ぶらぶらしてました。時間はあるから、日本中のいろんなところ行って。野宿して、お金がなくなったら日雇いの仕事をしばらくする。そんな生活を4年くらいしました。最初に北海道に行って、そこから徐々に南下していって、最後は西表島まで行きました。
僕は幼いころから(地元の)大洋ホエールズ(後の横浜ベイスターズ)のファンだったんですけど、球場に見に行くと勝てない、ってのがずっとあって。何十試合と見に行ってるはずなんですが。行った試合で勝ったのが斉藤明夫の完封と野村弘樹の完投勝利の2試合だけしか記憶にないんですよ。あとはずーっと負けてるんです。
極めつけがその98年ですよ。西表島にいて、一試合も球場に行かなかったらベイスターズが優勝するっていう」
─「俺が見に行くから負けてしまうんだ」と思っちゃったんですね。放浪から、どこでライターへの道が始まるんですか?
「西表島から茅ヶ崎に戻ってきて、東京行くためにバイトするようになるんです。東京行って物書きになろうと思って」
─なんでそこで物書きになろうと思ったんですか?
「自分のストロングポイントがそこしかないと思ってたんですよ。中学の時にやたら文章をほめられたことがあって。
学校で作る文集で、『ナメクジvs人間』というエッセイを書いたんですよ。ちょっとした格闘ものだったんですけど、それがウケまして。
上級生のきれいなお姉さんから通りすがりに『あ、ナメクジくん』と呼ばれたりして。それがちょっとした成功体験だったんですね。
大学行けなくなった自分が人さまと勝負しようと思ったときに、これでやっていくしかねえな、と」
─なるほど。でも何もないフリーターの若者がいきなり『物書きになる』と誓っても、当時(1999年)だと何をしていいかわからなくないですか?
「なのでまずは出版社で働こう、と思って。角川書店(現・KADOKAWA)でバイトしたんですね。地下にあった配送室という、大量に届くハガキを仕分ける部署だったんですけど」
─そんな仕事が当時あったんですね
「そこで一年くらい働いて辞めました」
─それは嫌になって?
「いや、契約満了です。あと1999年の夏で世界は滅びて自分も死ぬんだろうから、バイトしててもしょうがないと思って」
─そんな理由ですか!(笑) ※意味がわからない方は「ノストラダムス 大予言」で検索
「空気のきれいなところで死のうと思って。それで四国の四万十川にいました。そしたら世界は終わらなかったんですけど、大水が出たんですよ。それでテント貼ってたところが流されそうになって」
─ええ!大丈夫だったんですか?
「いやビビりなんで、早くに逃げましたけどね。それで生き残っちゃたんで『やっぱり物書きになろう』と、もう一度目指すことにしたんです。
角川書店でバイトしたときに、編集プロダクションという会社があるのを知ったんで、今度はそこに入ろうと。
『フロムエー』という求人雑誌を編プロの募集が出ていないか、毎号見てました。
でも高卒を対象にした編プロの求人なんてほぼないんですよね。今にして思えばそんな何のキャリアもない奴を、わざわざ求人広告費出して募集する会社なんてないよな、ってわかるんですけど。
そこで高卒ってのがそもそも難しい、って知りましたね。
編プロに入るのがなかなか難しいから酒屋でバイトして。まあそのころからカネが本当になかった。
週2回、善福寺公園で『フロムエー』を見てたんですけど、あるとき本当にお金がなくて。いつも公園に来ていて仲良くなった5歳の金持ちの家の男の子に300円借りて、それで『フロムエー』買ったときもありますからね」
─5歳の子にお金借りちゃダメですよ!
「ほんとですよね。けどそうやって『フロムエー』見てた時期に、とうとう自分の人生を変える会社と出会うんですよ。それが池袋にあった、デストロンってところなんですけど」
「デストロンの面接で、『ここが勝負だ』と思って、無茶苦茶書いたんです。
応募総数250通って言ってたかな…。そこで目立とうと思って、変な履歴書書いたんです。
『羊飼いのように穏やかな心を持ちながら、やるときはやる男です。人生を文章に捧げることを決意いたしました。今がこの才能を採用する最後のチャンスです』みたいな。
それが通っちゃったんです。ドラフト一位で。その時点でおかしいですよ。
結局、そういう(自粛)な人材が欲しかったんでしょうね。
デストロンという編プロは、もともとイタバシマサヒロさんとか、えのきどいちろうさんがやってたというところの弟子だった人間が作った会社だったんです。
そこで戦闘員として雇われたわけですよ。『デストロン』というのは仮面ライダーV3の悪の組織ですから」
─戦闘員は何をするんですか?
「…生きているうちに『嫌だな』と思う感情のすべてをやりましたね。
僕は入って二か月目で『スコラ』という雑誌で連載を持つんですけど、そこで持った連載が何かというと『北海道までカニを買いに行け』というんですよ。1万円だけ渡されて」
─1万円って、カニの代金ですよね。北海道までの交通費とか宿泊代は?
「ないですよ」
─え!じゃあどうするんですか?
「それを自分でなんとかしてこい、って企画だったんですよ」
─えー!どうしたんですか?
「原稿に書いたことで言うと、『西村京太郎ばりの鉄道トリックを使い』とかなんとか適当なことを書いて」
─それ、連載読んでた人はどう思ったんですかね?「トリック?なんだって?」とかならなかったんですか?
「いやー読者は何も覚えてないと思いますよ。連載2回で終わりましたし。『大好評につき2回で終了』となって」
─『大好評につき終了』って(笑) それで第二回の企画はなんだったんですか?
「第二回は、『境港まで1万円でカニを買いに行く』ですよ」
─デストロンはどれくらいいたんですか?
「二年…くらいですかね。いやー、本当、ひどいもんですよ。『精神と時の部屋』にいたようなものですから」
─思い出したくないからもしれませんが…ほかにどんなことを
「…今だと問題になることばかりなので、あまり言えませんけど、いいこともあったんですよ。
ライターとしての基礎は間違いなくここにありました。
特に取材ですね。エロ本撮影、合コンルポの手伝い、カルト教団への潜入。
いろいろやりましたけど、思い出すのは渋谷の109前で女の子に声を掛けて写真を撮らせてもらうんですよ。
『パンツ撮らせてください』って。
そんなもん頭のおかしい人じゃないですか」
―おかしいですね
「やりたいわけないですよ。でも、後で気がつくんです。取材やインタビューで聞きずらい、常識的には失礼にあたることに踏み込むことも結局は同じ。
『パンツを見せてください』のパンツがなにかに変わるだけで、大事なものを見せてもらうために、手を変え品を変え押したり引いたりしているんです。
でも苦しいですよ。
目の前の人には好かれたいのに、あえて嫌われるようなことをしないといけないわけですからね」
─それはちょっと…
「だからみんな抜けていくんですよ。こんなところでやりたくない、って。けど僕は社長の一番のお気に入りだったから、
『村瀬さんが残ってくれれば俺らはやめられる』
『村瀬さんは全員(辞めるのを)見届けてから、しんがりを飾ってくれ』
とか周りのやつらに言われてて。
周りはやめていく。
ほかの人間が辞めていくうちに、『もう逃げられない』と追い詰められましたけど、最後はどうにか辞めることができて。
ただ今となっては僕自身が甘かったことも多々あったし、仕事の基礎を覚えさせてくれたわけなので、感謝しかありませんけどね」
後編はこちら
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