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村瀬秀信さんインタビュー 後編(全2回)

村瀬秀信さんインタビュー 後編(全2回)
【後編 フリーライター】


―フリーのライターというのは、仕事は自分で探してとってくるようになるんですか?


「最初は知り合いの編集者が仕事を振ってくれていました。でも野球の記事なんか全然やれない。

初めて野球のことを記事にできたのは、フリーになって2年目の2004年、球界再編の時ですよ。

これは『止めたバットでツーベース』にも書きましたけど、(横浜)曙町に『合併反対』の署名運動をやってるヘルス(風俗店)があったんです」


─ああ、その記事ありました!


「GON!というB級ニュースマガジンが好きで、この時はエロ本にリニューアルしていたんですけど、ここのモノクロページでやっていた西川口月報というのが、初めての野球に関係する記事ですよ。

そのあとに『週刊プレイボーイ』でホリエモン(堀江貴文)と二宮清純さんの対談記事書いたんです。
それから翌2005年に「Number」で書くことになるんですけど、軸足はまだエロ本でしたね」


─「Number」では何の記事を書いたんですか


「阪神ですよ」


─おお!今回の作品(『虎の血』)につながりますね。それはどういう記事だったんですか?

「ちょうど優勝した年だったんで、阪神の優勝周りのアラカルトみたいな記事ですよ。『タイガースファンはなぜ中野に多い?』とか」


─多いんですか!初めて聞きました


「『中野猛虎会』(※)とかあるじゃないですか。東中野には『とら』っていう阪神ファンが集まる飲み屋がありますし、山手通りはずっと工事中で黄色と黒のポールが延々に続いている。

それから『道頓堀川の水は汚いのか』という水質調査記事とか、『インド人のタイガースファンがいる』と聞いて取材行ったりとか。

そういうのを集めた記事ですね」

※たけし軍団のダンカン(会長)が芸能人や、東京都(主に中野区)に住む阪神タイガースファンを集めて1992年に結成された阪神の応援集団


─なんかそういう『優勝こぼれ話』みたいな記事を「Number」で読んだ覚えがあります


「その年からトライアウトの記事も『週プレ』で書かせてもらうようになって、もう17年ですからね」


─だんだんそのあたりから「野球ライター」になってくわけですね。食べもの系の記事はいつから書くようになったんですか?


「『散歩の達人』ですね。あれもフリーになってからなんで、2003年か2004年からかな。

あんまり人がやりたがらない仕事をやりましたね。

ドヤに泊まってダニに食われてくるとか、モツ煮込みばっかり食べるとか、当時はそんな仕事ばかり。

連載が始まったのは2007年とかですね」


─今も続いている『絶賛チェーン店』(※)シリーズですね


※連載当初のタイトルは「俺の愛した国道の味 絶頂チェーン店」 。その後タイトルが. 「絶頂チェーン店MAX」「絶頂チェーン店 Full throttle」「絶頂チェーン店ビッグバン」「絶頂チェーン店六道輪廻」と進化。
連載は書籍化され、『気がつけばチェーン店ばかりでメシを食べている』『それでも気がつけばチェーン店ばかりでメシを食べている』『地方に行っても気がつけばチェーン店ばかりでメシを食べている』と3作が刊行。


「けど、野球もグルメも『失格の烙印』なんですよ。

『散歩の達人』っていい店どれだけ知ってるか、っていう雑誌じゃないですか。

その中でチェーン店やれってのは『おまえは失格だ』って言われてるようなもので。

雑食の方に行きなさい、ってことなんですよ」


─はあ…そういう世界なんですね。今の事務所(オフィスチタン)はいつ作られたんですか?


「2008年です。ライターになりたいのになれない時期が長かったのと、ガラにもなく後進を育てなきゃマズイと思ったんでしょうね」


─これから何をやりたい、書きたいってありますか?


「『虎の血』が売れてほしいです」


─そうですよね…。


「(最初の取材を始めて本になるまで)14年かかってますからね」


─最初に書き始めるきっけかはなんだったんですか?


「2011年に『Number』で『監督列伝』みたいな記事を書いたんです。 そのときに初めて岸一郎さんのことを知って。

そのときは『わずか1か月半だけ監督をやった謎の老人』みたいな記事で終わったんですけど、気になったんでいつかちゃんと調べて書きたいな、と思って。

そこから時間あるときは自主的に資料を集めたり調べてたんですよ。

ただそのときはどこの媒体でどうやって発表するとか何も決まってないし、当時の資料もそんな残ってないから行き詰まりを感じてたんです。

それで2017年に集英社編集部の内山さんとお会いした時に「阪神にかつてこういう人がいて、今調べている」と話したら「それ、うちでやりましょう」と言ってくださって。それで本になった形です。

途中でコロナになって取材ができなくなったりして、どうなることかと思いましたけどその間もずっと待っててくれて。

内山さんのおかげですね」


─昭和30年に1か月半だけプロ野球の監督をやった人のことを調べるというのは想像以上に大変そうな気がするんですけど


「まず、資料がほぼ残っていない。これが大変でした。

最終章で書かれる、晩年の岸一郎が訪れたという敦賀で行われたタイガースの練習試合も、当時の地元新聞にそのことを伝える記事が何もないんですよ。

本当にこの試合はあったのか?勘違いってことはないのか?って。

けれど本にも出てくる辻佳紀さんのご家族や、小山正明さん、川藤さんが覚えてて。複数の証言が取れたのでそれでやっと書ける、というような。

敦賀で取材していく中で岸一郎の遺族の方に出会えたのと、小山正明さんが岸一郎に再会したときのことを覚えていたのは大きかったですね。それで書ける、と思いました。

この本は、いろんな人の協力があってできているんです。

取材に協力してくれた方々もそうですし、ずっと何年間も原稿を待っててくれた編集者の内山さんもそうですし、お店の場所を提供してくださる書店さんに対しても。いろんな人の協力があって出せてるわけだから…売れて欲しいです」


─そうですよね。こういう、何年も地道に取材して書いた本が売れないと、今後こういうノンフィクションが企画として通らなくなっちゃいますし


「結構それは瀬戸際に来ている感じもするんです。

今、プロのライターとして、書くことだけで食べていけるような人が周りでもどんどんいなくなってる。

僕らのようなライターは、書いた本が売れることしか生き残る術はない;のです。

どうかよろしくお願いします!

(インタビュー:2024.3.12日集英社会議室にて実施)

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