村社会といじめ
いじめは学校における問題がクローズアップされがちですが、おそらくどのような集団にも発生する問題ではないでしょうか。いじめやいじめ性を内包した人間関係が発生する背景の一つとして、日本の集団を暗黙の裡に動かしている村社会の論理があるように思われます。なお、これは日々の臨床から感じ取られたことであり、綿密な社会学的研究に基づいているわけではないことを、予めお断りしておきます。
ここで言う村社会の論理とは、一言で言えば、「誰も見捨てない代わりに、仲間に入れてあげるからには、みんな分相応に」という発想です。誰も見捨てないのですから、優しいのです。そこに入れてもらえている間は、生存と所属が保証され、安心なのです。しかしその代わり、掟を破ったら分不相応ということで、村八分にされるというわけです。
たとえば、被害者が告発も被害の自覚もせず、したがって被害が発生していないかのようにみえるいじめの一形態として、「いじられキャラ」という適応スタイルがあります。ある集団の中で、何らかの属性や特徴を持った人が、バカにしたり笑い者にしたりしてもオッケーな対象として暗黙の裡に認定されます。その人は、他のメンバーから笑い者にされることを受け入れる限りにおいて、仲間に入れてもらえます。それでその人自身も楽しかったり、自分をネタにして笑いを取るのが自分の得意分野だと思っていたりします。
しかし、その人がひとたびバカにされることを嫌がり、自分もみんなと対等に付き合いたいと意思表示すると、分不相応つまり「生意気だ」とされ、それでもその人が黙らないと、潜在していたいじめ構造が、明確ないじめとして顕在化します。村八分というわけです。
また、上下関係が比較的はっきりしている集団において、ハラスメントなどの告発は、その村的集団の掟破りとして、暗黙の裡に黙らされることもあるでしょう。黙っている限り、それまで通り面倒を見てあげるけど、黙らないなら生意気だからもうどうなっても知らないよ、という声なき圧力を誰からともなく感じるということは稀ではなさそうです。
さて、私はずいぶん世の中を悪く見ているのでしょうか。そんなにみんな冷たくないし、心が狭い人ばかりではない、と言われるでしょうか。いえいえ、冒頭で述べましたとおり、私は「誰も見捨てない」世の中について描いているわけです。冷たい人も、心の狭い人も想定していません。誰も見捨てない優しい集団の話をしているのです。
あるいは、村の掟なんて大仰なものはもうないよ、と言われるでしょうか。確かに、掟は「空気」と呼ばれていたり、掟破りは「空気読めない」と呼ばれていたりするので、日常生活においては、もっとソフトな印象かもしれません。
でも、そのみんなの優しい「気遣い」によって仲間に入れてもらっている人が、それでも「空気を読まず」に、「自分勝手」なことをしていると、「空気読めよ」とか「立場わかってんのかね」とか、陰で言われていたりするときに、みんなの中で暗黙の裡に想定されている論理は、私がここで述べたようなものとそう遠くないのではないでしょうか。ここまでくると、その人は「ハブられ」ても仕方ないと暗黙の裡に思われてしまいそうですし、そこから、いわゆる「いじめられる側にも原因がある」という言説までもう一歩です。
ここで、「誰も見捨てない社会」と「すべての人が尊重される社会」を比べてみるのも一興かもしれません。これらは一見同じようなことを言っているようですが、実は似て非なるものではないかと思います。
「誰も見捨てない社会」は、ここまで述べてきたとおり、優しさを感じさせます。みんなを同じ輪の中に入れてあげるわけです。しかしそこには、見捨てることを禁ずる掟があります。したがって、強制された思いやりによって、本当は相容れない相手、好きではない相手も仲間に入れてあげることになります。すると自然とストレスが溜まるので、その相手が空気を読まずに和を乱すと、「思いやって仲間に入れてやってるのに立場を弁えない奴だ」となるわけです。しかし、見捨ててはいけないので、ならば村八分にするということになります。
こう考えてくると、たとえば「不当な差別」といった不思議な表現も理解できるように思われます。差別というのはすべからく不当ですから、わざわざ「不当な」と付けることによって、あたかも「正当な」差別が存在するかのように暗示するレトリックのように思われます。しかし、村社会の論理から言えば、実際に「正当な」差別が存在するということになりそうです。輪の中に入れてあげているにも関わらず和を乱す生意気な奴に対して、村落共同体の和を維持するための装置としての村八分が発動される。それがいわば、正当な差別ということになるのでしょう。そして、「掟を破ったのだから村八分にされても仕方がない」、という論理は、しばしば「いじめられる側にも原因がある(=アイツはいじめられてもしょうがない)」という論理と地続きではないでしょうか。
では、「すべての人が尊重される社会」ではどうなるのでしょう。ここでは、見捨てることを禁ずる掟はありません。一人ひとり違う人間たちが、それぞれの感覚や考えを尊重されるわけですから、相容れない組み合わせが出てくるのは必然です。ですから、一緒にやっていけない人を見捨てるのも自由です。ただし、見捨てられる人も尊重されねばなりませんから、自分とは相容れないからといって、その人を侮蔑したり、否定したり、尊厳を傷つけたりしてはならない、ということになるでしょう。(ただ、「見捨てる」という言葉はいくらか見捨てられる相手に思い知らせてやろうというニュアンスがありますから、「離れる」という言葉のほうが、より適切かもしれませんが・・)
つまり、誰もがお互い付き合える限りにおいて付き合っていく。付き合えない相手とは無理に付き合わなくてもいい。しかし、その人もその人なりの感覚や考えで存在していることまで否定してはならない。その付き合いは長く続く場合もあれば、組み合わせによっては早めに離れたほうがお互いのため、ということもあるでしょう。
このような考えはドライで冷たく、自分勝手な奴ばかりになってしまうのではないか、という心配が聞こえてきそうです。たしかに、「一生添い遂げます」というような感動的な宣言に比べれば、「お互い付き合える限りで付き合いましょう」などというのは相手への信頼が最初からないのかと訝られそうです。しかし、「みんな仲良く」という暗黙の掟の下で、本音を殺しながら笑顔を作り、裏では陰口を叩き合っているというような関係維持の仕方とどちらが嘘や誤魔化しが少ないか、どちらがより豊かに情動をやりとりできるか、と考えるとなかなか難しいところです。
さて、いじめの話から少し離れてしまったようですが、ここまでの「誰も見捨てない社会」と「すべての人が尊重される社会」の違いを踏まえていじめの問題に戻ってみますと、「見捨ててはならない」という思いやりのプレッシャーが、相容れない相手への鬱憤晴らしを正当化するという流れが見えてきそうです。一言で言えば、思いやりでいじめは解決できないということです。むしろ、強制された思いやりによって、いじめが醸成されるという関連性もあるかもしれません。「みんな仲良く」「一つの輪になって」を強要するから、「和を乱す」者への村八分が暗黙の裡に正当化されるというわけです。
いじめは最初から仲の悪い関係においてはあまり起こりません。そこでは、いじめというよりは、喧嘩や戦いが生じるでしょう。いじめはむしろ、元は仲が良かった関係や、いつもツルンでいる仲間内で発生してきます。「ウチらいつも一緒」という仲間意識が、メンバー個々人の自由意志を超えて、暗黙の掟と化したところに、村社会が現われ、和を乱す者への攻撃が正当化されるのかもしれません。
おそらく私たち日本社会の構成メンバーの中には、村社会の論理に動かされる部分があるのでしょう。それを注意深く観察し、いじめを帰結する集団維持の構造が力を持ってくる前に解体していくことが不断の努力として求められるのかもしれません。
(元記事投稿日2023年5月16日)
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