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ディスコミュニケーションを越えて

ウェブサイトでは、私の著作物などをお読みいただいて申し込む価値アリかどうかご判断いただければ、と書きました。とはいえ、多くの方にとって、学術的な文献にアクセスすることは容易ではないと思われます。そこで、私の著作などを解説したり、現在の視点から読み直したりすることで、アクセシビリティを多少なりとも改善できればと考える次第です。

今回は、2017年に出版された論文「自閉の輪郭を描く」(精神分析研究61巻4号)を取り上げたいと思います。この論文は、成人の自閉スペクトラム(以下、AS)の理解と臨床的関わりにおいて重要と思われる問題を取り上げたものです。なお、「自閉スペクトラム症」あるいは「ASD」という表記をよく見かけると思いますが、この記事では一貫して「自閉スペクトラム」あるいは「AS」と表記します。それはなぜかというと、精神医学的に自閉スペクトラム症(ASD)と診断される方との関わりにおいてはもちろんのこと、診断されるほどではなくても、その方の背景にある自閉的な特徴や傾向を考慮に入れたほうが、その方にしっくりくる自己理解を促したり、その方が直面している問題への取り組みをより的確に支援したりすることができる場合がよくあるからです。

さて、話を戻しますと、この論文で取り上げたテーマは、言語能力がよく発達しているASの方と、いわゆる定型発達の方(援助専門職を含む)との間で起こりがちなディスコミュニケーションです。定型発達というのは、発達障害を何らかの特性の偏りと考えたときに、その偏りが大きくない範囲に収まると想定される多くの人たちを指しています。

では、ディスコミュニケーションとはなにか。言語能力が高いASの方は、定型発達の方と一定程度、日常会話や雑談のようなことをすることができます。一般的には、ASを抱えた方は目的のはっきりしないことや、決まったルールに当てはまらないことは苦手とされており、他愛のない雑談などは難しいものです。しかし、言語能力がよく発達していると、かなり対応可能だったりするのです。それはなぜかというと、「こういう話題のときには、こう返しておけばいい」という、それまでの経験で学んできた膨大なパターン処理によって、いろいろな話題に対してちゃんと返事を返すことができるからです。

しかし、このように書くとお気づきかもしれませんが、このやり方は、定型発達の方たちが雑談をするときの心のはたらき方と異なっているようです。定型発達の方たちはおそらく、思いつくまま言いたいことを言って(もちろん社交的な気遣いはしつつ)、即興的に会話を楽しむ、ということをしているのだと思われます。おそらく、パターンで返すという課題に対処しているという感覚ではないでしょう。

つまり、雑談において、言語能力がよく発達したASの方と、いわゆる定型発達の方は、異なるメカニズムを用いて、同じようなアウトプットをしているわけです。ここに、ディスコミュニケーションが生じています。一見すると会話は噛み合っていますが、水面下では、パターン処理課題への対処と、即興的な楽しみという、むしろ正反対と言ってもいいような心の作業が進行中なわけです。

そのまま会話が終われば、その場限りでの問題はひとまず生じません。しかし、このようなディスコミュニケーションが積み重なっていくとどうでしょう。定型発達の方たちは、即興的な会話を楽しんでいるわけですから、相手も同様に楽しんでいるだろうと期待するでしょう(相手からは相応の返事が返ってくるので、相当カンのいい人でないと、メカニズムや動機にズレがあるとは気づきません)。しかし、ASの方たちは、頭をフル回転させてパターン処理課題に取り組んでいるような状態ですから、会話をすると疲れるという経験を重ねることになります。しかも、場合によっては人と話すこと自体はASの方にとっても興味深いことだったりするので、その疲れは翌日になって、「理由はわからないけど今日は身体が動かない」といった形で現れることになるかもしれません。

また、言語能力がよく発達しているASの方は語彙が豊富だったりもします。それで、雑談の中でもその語彙力を発揮したりします。定型発達の方にとっては、雑談はリラックスして行うなんでもない行為ですから、「雑談レベルで、これだけいろいろな言葉や話が出てくるのだから、この人は仕事や他のこともすごくいろいろできるんだろう」と期待したりします。しかし、ASの方にとっては、雑談は頭をフル回転して行うパターン処理課題なので、すでにそれが限界値だったりします。それに、言語能力は高くても、具体的な作業は苦手であるなど、得意な分野と不得手な分野のギャップが大きいのもASの方によく見られることです。すると、結果的には定型発達の方たちの高まった期待を、ASの方が「裏切る」という形になってしまったりします。

これはディスコミュニケーションの悲惨な結果の一つです。「裏切る」という言葉をカギカッコに入れたのは、それがあくまでも定型発達の方の視点から見た意味付けだからです。ASの方からすれば、雑談においても、仕事においても、学業においても、その他のことにおいても、自分が持てるスペックで可能な限りベストを尽くしているだけです。裏切る気は毛頭ないわけです。しかし、定型発達の方は、相手が自分たちと同じメカニズムで雑談をしていると想定しているので、その思い込みに基づいて期待を膨らませ、期待どおりにならないので落胆しているのです。

つまり、定型発達の方も、ASの方の考えを想像することが困難なのです。この点、「他者の内面を想像することが困難」というのは、ASに固有の問題であると同時に、異なる文化的背景を持つ者同士は、相手が何を考えているのか理解するのが難しいという、より一般的で双方向的な問題でもあるのかもしれないと考えてみることは興味深いことと思われます。

さて、ともあれ、このようなディスコミュニケーションが、ASの方と、定型発達の援助専門職の人との間で起きたら・・・と考えると、なかなか双方にとってつらいものがあります。

専門家であれば、背景にASの傾向があることを見逃すことはないだろう、と思われるかもしれません。ここに、私が「ASD」ではなく「AS」という表記を用いている一つの意図があります。もちろんASDと診断されるくらい明確な特徴があれば、援助専門職なら見逃すことはないでしょう。しかし、それほど特徴が明確でない場合には、定型発達の人の悩みや困りごととして対応してしまうことは案外あったりするのです。

これはある意味では仕方のないことで、援助者としては、相手が悩みや困り
ごとを訴えている以上、その「内容」に耳を傾けがちになります。相手が言語能力の高いASの方であれば、むしろ豊かに自分の悩みを話してくれるので、ますます「内容」に引き込まれてしまいます。さきほど述べた、定型発達の方たちの期待が高まる状態と同じような状態に近づいていくわけです。ここで、「内容」に耳を傾けながらも、同時にその話がどういった「メカニズム」からアウトプットされているのか、というところまで感知することは、相当な訓練と経験を経ていないと難しいのです。

また一方、ASの方にしても、多くの場合、自分がASの傾向を持っているという自覚はありませんから、周りにいる定型発達の方が使っている言葉を使って、自分の悩みもそれと同じようなものなのだろうと思って話をします。このあたり、他者の内面を想像することが困難というASの特徴が一役買っているわけです。人の話を聞きながら、その背景にあるその人の体験の実質を想像し、「どうやら自分の悩みは、みんなが言っている~~とは似ているようでちょっと質が違うみたいだぞ」と気づくというのはなかなか難しいことなのです。

そのようなわけで、援助者側としては、「こういう悩みなら、こういうことで解決していきそうだけど、どうもなぜだか、なかなか話が進んでいかないなぁ」と感じつつ、ASの方としては、「助言やコメントはよくわかるし、その通りだと思うのだけど、自分に役立ててみようとすると、どうもなぜだか、うまくいかないなぁ」と感じつつ、静かなるディスコミュニケーションが続いてしまう、ということが起こりうるのです。

では、どのようにこのディスコミュニケーションを乗り越えたらいいのでしょうか。ここで少し話を戻してみましょう。さきほど、ASの方は雑談で膨大なパターン処理課題に取り組んでいるようなものなので疲れてしまうと書きましたが、どうして疲れるのに参加するのだろうと思われた方もおいでではないでしょうか。

ここに一つのヒントがあります。相手の内面を想像するのが難しいのがASの特徴の一つと述べました。すると、ASの方は、定型発達の方がリラックスして即興的に楽しんでいるのだということがピンと来ていない、ということが起こりえます。みんな自分と同じように一生懸命パターン処理をしているのだと考えていたりします。理由はよくわからないけど、そうしなきゃいけないんだ、社会はそういうものなんだと。

定型発達の方がどのようなメカニズムと動機で会話をしているのか知ると、ASの方にとっては目から鱗、ということはわりに出会います(さきほど指摘した通り、この逆も言えます。ASの方の考えを知ると、定型発達の方には目から鱗なのです)。

あるいは、好むと好まざるとに関わらず、その場の流れに巻き込まれてしまうと、もう対処せざるを得ないという場合もあるかもしれません。この場合には、想像することの困難というよりは、与えられた状況に対して受身的になってしまうというASの特徴が関連していると言えましょう。

つまり、ASの方は参加したくて雑談や日常会話に参加しているというよりは、それ以外のやり方がうまく考えられなくなっている場合があるということです。そうなると、本当のところ自分はどういうときにリラックスしたり、落ち着いたりしていられるのか、ASの方が確かめられるような方向性を模索するというのが、ディスコミュニケーションを越えていく一つの道筋ということになるでしょう。

もしかすると、本当は黙っているときの方が自分らしくいられるのかもしれません。本当は一人でいるときの方が楽しいのかもしれません。あるいは、話をするのは好きなのだけど、話を聞くのはそれほど興味をそそられないのかもしれません。人の考えを聞くのは楽しいけど、空気を読んでそれに合わせた返事をすることはめんどうくさいという場合だってあるでしょう(このように挙げていくと、ASと定型発達の境界がはっきりしたものではないというのがよくおわかりでしょう)。

一人一人が自分の本来の在り方(輪郭)を確かめ、そのうえで、人とどう付き合っていくか考えられるようになることが、個の尊重ということでしょう。そのためには、まずディスコミュニケーションが起きていることを知ること、そして、それがどのような性質のディスコミュニケーションなのか詳らかにしていくことでしょう。

(元記事投稿日2023年2月4日)

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