長純一さんの2022年6月21日「非常に大切なメッセージ」動画を文字おこししました。
2021年に宮城県知事に立候補された、石巻の医師・長純一さんが末期の膵癌と発表されたということを、昨日の午後に知って、とてつもなく動揺しています。「未来へ、いのちをつなぐ石巻の会」が配信したメッセージ動画「長純一さんより非常に大切なお知らせがあります。」を観ながら文字起こししました。長純一さんのメッセージを受けとって、つないでいきたいです。
動画ももちろんご覧いただきたいです。
スピード重視でアップします。正確ではないことをご了承ください。気づいたところを随時修正します。6/23 7:30
6月28日の午後3時38分に長純一さんがご逝去されたという報を受けました。心からお悔やみ申し上げます。早すぎる死をまだ受け止めることができません。もう一度メッセージ動画を視聴し、画面の中にいらっしゃる長さんの言葉を聞き、起こしたテキストのこまかい修正をおこないました。6/29 7:00 、6/30 6:00
石巻、宮城の皆さん、おばんです。全国の皆様、こんばんは。私、長純一の緊急の告知、私からの大切なお知らせの告知に対して、ご覧いただいてありがとうございます。ご覧いただいているように、私は体調がかんばしくなく、このような姿勢かたちで 皆様にメッセージを出させていただく姿勢をまずお詫びいたします。
私、長純一は、長年、佐久総合病院で活動したあと、東日本大震災を契機にこの石巻に来て、被災された皆様のさまざまな支援活動に取り組んで来、そのうえで、昨年思うところあり、2つの選挙に出るということになりました(2021年4月25日執行・石巻市長選挙、2021年10月31日執行・宮城県知事選挙)。
結果伴わずいろいろな誘いを受けましたが、やはり、被災地石巻、宮城をなんとかしたいと考え、被災者支援をめざした当初の原点に戻るべく、あゆみ野地区という被災された皆様がたくさん移り住まわれた地区のクリニックがうまくいっていないということをお聞きし、その再建に取り組むべく、(2022年)1月からあゆみ野クリニック院長として活動しておりました。
そのクリニックも様々な問題も多く、ストレスの日々でありましたが健康の異変を感じることなく活動しておりましたところ、今思えば、4月の中旬から下旬、下旬ですかね、GW明けあたりから、腹満、そして便秘などが出現し、ちょうど私が(石巻)市議選で都甲マリ子候補を応援している、その活動も重なり、その時期にストレス等からの体調不良、もしくは、医師としてはたまにそういったケースを見かけますが、非常に進行の早い悪性腫瘍、がん、具体的にはすい臓がんですけれども、を気にするようになりました。5月31日受診、6月2日、私はすい臓がんの極めて進行した状態、いわゆる末期状態であることがわかりました。すい臓の中でも発見が難しい膵尾部に6センチの腫瘍があり、多発肝臓転移、そして腹膜への播種、腹部内リンパ節、肺への転移等々全身への転移、さらに腹膜播種による腹水の貯留によりほぼイレウスに近い状態、腸閉塞という状態に近い状態になっており、食事は食べられず、という状況になっていました。医師としてそんなことがわからないのかと、ヤブ医者と言われそうですが、私も、在宅等でのお看取りや緩和ケアに取り組んできた経験から、比較的若い方で急速に進行するすい臓がん、そういったケースを見かけることがあり、残念ながら、そのようないわゆる見つかった時点でいきなり末期という状態であることを、検査で一瞬に悟りました。
その後も、腹水貯留から嘔吐を繰り返すようになり、現在はこのように、中心静脈栄養という高カロリー輸液を受けながら、そして、嘔吐を繰り返すために胃から鼻に管を入れ、吐かないように管で廃液をし、いっさい、まあ、わずかに水を飲めるかどうか程度ですが、そのような状況で、現在この借り家ではありますが自宅で過ごしております。
このことにより、急にあゆみ野クリニックでの診療を中止することで、患者さん、あるいは紹介先の先生に大変ご迷惑をおかけしたこと、また、さまざまな面で私を支援してくださった皆様に大変申し訳なく思っているとともに、この機会をそれでも作ってくださった、「未来へ、いのちをつなぐ石巻の会」の皆様や、今の私を支えてくださっている医療そして看護・介護・福祉、さまざまな皆様に大変感謝をしております。今日は私のたっての希望でこういう機会を作っていただき、本当にありがとうございます。
私自身は、先ほど申したように、このような状況が起こりうるということに関して、起きたことに関して覚悟しておりますし、経過もおおよそわかっているつもりがあります。しかし、その中で、本当に多くの方々が応援してくださり、現在石巻赤十字病院においては、抗がん剤の治療を開始するとともに、同時に並行で、石巻市立病院、私が創設に関わった在宅医療のチームが、24時間体制で訪問診療をしにきてくださり、そして、何よりも看護・介護、ケアの領域の人たちが、すぐに動いてくれて、私の生活を支えてくれ、生活と命を支えてくれています。たしかに私がその領域の専門だった、あるいは医師だから特別だという部分もないわけではありませんが、おそらく私はいま日本一恵まれた医療を受けている患者だと考えています。このような状態で家でいられるだけではなく、自分の訴えたいことを作ってもらえたことも含めて、大変幸せな患者であり、人間だと思っています。
私が石巻に来て、地域包括ケア、これは、専門の方はご存じですが、医療・介護の連携だけではなく、行政や住民が、超高齢そして少子社会を見据えたまちづくりを行っていくこと。このことが石巻の重要政策となり、復興庁のトップモデルとなり、地方創生の日本の第一号のモデルとなり、中心市街地活性化という内閣府の第一号モデルとなったのは、被災地でもっとも必要なことであるということであるというふうに中央の皆様が認めてくれた。その背景には、手前みそにはなりますが、私が長年、地域包括ケアの領域や、在宅医療、総合診療、といった医療関係の領域、のみならず、地方で守る活動に取り組んでいたことを、その関係で存じ上げていた皆様、中央の多くの人たちが応援してくれたこともあったというふうに感じておりました。
地域包括ケアによる復興まちづくり、この中には被災者支援という部分と、特に子ども子育てを含むという点が画期的であり、日本最初のすぐれた地域包括ケア計画だったと思いますが、計画の策定には関われるものの、実質的に運営するにおいては、どうしても医療介護連携の部分のみに焦点があたり、被災された皆様の復興に関わる部分、あるいは子ども子育て、これこそは今の日本のそして石巻の課題になりますが、この少子化問題、この問題に取り組む機会は見いだせませんでした。
しかし、教育委員会の会議等に出せてもらう機会もあり、学校や親だけにまかせておいては、今の日本のこどもの問題、子どものいわゆる貧困問題や、さまざまな非常に厳しい状況、いわゆるシングルマザーを取り巻く環境、女性、子育て、こういったことを総合的に、専門職だけではなくて行政課題として取り組んでいくことを、しっかりやらなければこの国の将来はない。極端な話、医師をやっている場合ではないと感じることが多かったのも事実です。
今日は、政治的な発言、政治的なことに関しては、触れないというふうに伝わっている方もいらっしゃるかもしれませんので、これからは、ある意味社会問題や政治に関係することになると思いますので、まずは、私の病状、そして皆様へのお詫び、そしてこれからお話することは私が最後言い残したいこと、これからの未来に対する提言になります。もしよろしければそこにお付き合いください。
(26:17)
いまお話しましたように、医療・介護そして市立病院の改革、これらを私は一つの(石巻市長)選挙戦の公約等にし、残念ながら、その任をまかせることはありませんでしたが、大きな課題だと考えておりましたし、今も考えています。しかし、同時のこの少子化の問題、子どもをいかに守り育てていくのか、このことを本気で社会全体で取り組まなければいけないと、考えております。個人的なことになりますが、私も、いろいろな思いがあり、自分が身近で親として子どもを育てることができない、しかし地域や社会にお世話になりながら、それでも子どもを生みたいと考え、あまり世間には明らかにしてはおりませんでしたが、子どもを生ませていただいております。そのような中で、本当に社会が子どもにやさしい社会にならなければ、そのためには、子どもの教育、子育て、どうしてもお母さんの支援、女性の就労支援、それらを総合的にやらなければならない。このことを考え私は今回、36歳、妊娠中であった都甲マリ子さんを全面的に応援をし、彼女のがんばりもあり、がんばりにより、当選にこぎつけています。すでに議会での対応が変わっているというように報告を受けており、これから子どもを産み子どもを育てながら議員を続ける、そしてそのことをリアルタイムで、当人の問題として訴えていく議員がうまれたことは、私は非常に嬉しく思っており、私がいくら言うよりも、彼女がその実感を持って変えていっていただく、そういう人材であると確信をして応援をさせていただきました。
世界の少子化問題を考えると、家族の形態や、親子の関係を大幅に見直してでも、あらゆる子どもが育ちやすい環境を作っていかない限り、日本の将来はありません。ぜひ皆さん、今後、都甲マリ子さんを応援していただき、そして、子ども子育て問題をこの石巻の軸と考えて、活動していっていただきたい。石巻は消滅可能性都市896に入っております。人口はどんどん小さく減って、小さくならないようにするためにがんばっていただきたいと思っています。そして公約の重要な柱であった、在宅医療日本一をめざす、これは私が以前佐久でいた村を全国実質在宅ナンバーワンに引き上げた実績があり、これを踏襲する形で、全国の仲間から在宅医の応援を受け、2年以内にあらゆるところで石巻市のどんな離島であろうが、家で最期まで暮らしたい人は支援をできる、看取りができる、そういったことを市立病院を核に改革していく、そのようなことを提案しました。もう青写真はありました。市立病院は、当初の目的が、地域の医療である在宅医療を柱にする、総合診療を重視する、このように訴え、そしてそのことで国から支援を受けています。
私、長純一、その在宅医療日本一をめざす、と公約した石巻において、先ほども申しましたが、赤十字病院できっちりとした治療を受けながら、その在宅医療の恩恵、在宅ケアの恩恵を最大限に受け、おそらく今日本でもっとも恵まれた医療を受けていると感じております。先ほどお話したように、すい臓がんの末期といわれる状態になって早ければ、私の臨床経験からは数週間、抗がん剤が効き、急速な病気の進行が抑えられたとしても非常に予後が厳しく、数か月がんばれるかというふうに自覚しておりますが、それでも私は、このように、最期、自分が望んだ自分の仕事をまとめ、自分の訴えたいことを、やり残したことを、少しでも整理をし、そして皆さんにお詫びや、これからもし皆さんにがんばっていただけるような引き継ぐことができることがあれば引き継いでいきたいということをお話をさせていただく、そのことを支援できる在宅医療ケアがある。そのことを私は皆さんに訴えたいし、その核として市立病院が今後10年先日本を代表するような病院になる可能性がある病院だと私は信じて、この昨年までの9年間がんばってきたつもりがありますし、そこで育った仲間ががんばっている限り、詳細はちょっと省きますが、確実に市立病院は再生していく。
これは知事選でも訴えましたが、宮城県は、医学部が新設され、地域で働く総合診療を行う医者が増える唯一の県なんです。2年後から石巻市立病院、今日も実はその6年生の学生さんが来ましたが、地域で働くことを義務付けられたり目標としている若い学生さんたち、そういった人をしっかり育てていくことができる病院は、県内にほとんどない。市立病院には、私が旗を立て、そこに集まった若くて被災地に寄り添おうとして、そして、在宅医療も僻地の医療も率先しておこなう医師がいる。この宝を、市民の皆さん、ぜひ守って、応援していただきたいと思っています。
そして、そのことが、市立病院だけではなく、牡鹿、雄勝、北上、橋浦そういったところ、さらに桃生郡の非常に医師が手薄になってきて医療が手薄になってきている、医療をサポートしたり、閉院になったわたのはクリニック等の地区もサポートできるのではないかと、私、長純一は考えています。
自分がその任を担えなくなったことはとても残念ではありますが、私には10年先、石巻が非常に明るい、非常にすばらしい医療を行える日赤と、そのハブ、地域との繋ぎになる市立病院と、他のきっちり医療・介護を連携しながら、その地区を守っていらっしゃる民間病院とが共存しながら、医師会の先生方とも連携して、この地域の医療を守っている姿が心に浮かびます。
ぜひ、皆様のご支援をよろしくお願いいたします。ご支援ご理解をお願いしたいと思います。
さて、私自身がなぜ政治に出たのかというのは、今お話したことからもおわかりいただけるかと思いますが、市立病院がそのような医師が集まりながらどんどん退職をする、仮設住宅の支援をしてきた仲間や全国から総合診療を石巻市立病院の核にしたいと思った仲間が、退職してしまう状況を改めなければならない。そのためには、そのことを皆さんに知っていただく必要がある。あるいは包括ケアも、途中から停滞している。このままでは期待されたことができないままに終わってしまう。そして少子化問題・子育て問題にもっと関わりたい。被災された皆様の心のケアの在り方をもっとしっかりしたい。このようなことでした。
これらに関して、またできるだけ、最期の最期の日まで私はこのような形で映像などで発信をしていきたいと考えております。
私は、長らく、東京に生まれましたが、いわゆる地方を守りたい、医療を通じて地方を守りたいと考え、地域医療・農村医療のメッカといわれる佐久病院で19年、12年、11年を過疎地で仕事をしてきましたが、決して後悔することなく、いろいろな経験をさせていただき、日本の地方都市、あるいは中山間地域、漁村に大きな魅力があると信じています。この石巻が光り輝くまちとして、あの復興から立ち上がっていく姿、それを見られないのが残念ですし、自分がそこに直接関わることがもうできなくなることが残念ではありますが、おこがましいかとは思いますが、このような形でメッセージを残すことで、何か皆さんの中に少しでも残るものを引き継いでみよう、目指してみようということが、望外となります。
(00:38:45)
私は、ずっと前向きに走ることを行ってきました。正確には、私が学生以降、多くの偉大な先輩方を追っかけ的なことをしている中で、たいしたことなかった私が、期待をされているというような錯覚を受け、それに少しでも応えようとすることで、少しでも一歩でも前向きに、前のめりに、命を守り地域を守る活動を行いたいということを、やってきました。
私の理論上の師は、中川米造という師ですが、私は27年前(ママ)に彼がまさしく私とは進行のスピードは違いますけれども末期がんのときに、その最期の友人の言葉を友人に頼みNHKの番組にしてもらったことがあります。生物学的には死を迎えても、精神的・社会的にどなたかの中で住み続ける、生き続ける、それは私の中に死が住んでいることと繋がっています。そしてもっとも私の最大の師である、若月俊一、佐久総合病院院長、農村医療の父、この先生に私は目をかけられたと、勘違いかもしれませんがそう思い、恥じないように生きようと思い、今まで活動してきました。彼は86歳の時点で、自分が死ぬときのことは考えていないというようにインタビューに答えています。今、どういう死にかたをするかなどという、それはそれで重要な考え方もありますが、自分がどう死ぬかということを考えることもないほど、彼はやり残したことがあり、実際、晩年に自分が目指したことの2,3割しかできなかった。日本の歴史上もっとも日本の医療に大きな影響を与えた一人である若月がそのように申しております。そのような先人と比べれば、私は米粒のような存在ではありますが、それでもこのように今回、私はテレビに出るとかそういうこととは関係なくですね、これだけ多くの方々に、これだけよくしていただいたことが、私が少しがんばってきたことの証だというふうに感じ、二重の意味で感謝をしています。
選挙応援のときにも、たくさんの電話がけをさせていただきましたが、見ず知らずの、私から見れば見ず知らずの方が、あたたかい言葉を寄せてくれました。「石巻のこれからを頼む」「変えてほしい」「またがんばってください」、そのように声をいただくたびに、「なんで医者やめちゃったの」「選挙なんかでたの」という声も、もちろんいただきますけども、医者はやめていませんけども、そのような声をいただくたびに、私は本当に自分のやってきたことが認められているような気がして嬉しかったことをおぼえています。
また私は (いおうと)としましたが、当初より、被災された身近な診療するということが、一番の目標ではありましたが、行政の中に入って、被災自治体の大変さを少しでも応援したいと考えてきたのが原点でありました。先ほどちょっと触れましたように、医師でありながらですね、けっこう多くの中央行政・中央官僚の方や、政治家の方ともお付き合いがあり、また阪神大震災の支援経験などからさまざまな人脈もあり、そういったものをフルに活用するには、いわゆる臨床医だけではなくて、行政の中で仕事がしたい。ですので、政治をやりに来たというと大げさですけれども、行政を少しでもよくすることが被災された皆様や石巻の将来に繋がると、当初より考えており、先ほど、その結果というか、医療から離れて政治を目指した、ことにもつながっています。
ですので、私が今回、私が関わった患者さんがたに大変ご迷惑をおかけしたいという点に関しては本当に申し訳なく思っていますが、同時に私が活動をひろげたことにより、応援されたと、あるいは応援したいという方々が現れたこともまた事実であり、これからの石巻、宮城、そして日本が、少しでも命と暮らし、特に命を大事にする。その中に、今ある命だけではなくて、未来の命がこれから特に大事になってくる。そのことを考えてくださる皆さんが増えていくことを期待しております。
(00:45:43)
そして、これからですが、私はこのような形で、在宅ケアといわれるものを受けながら、基本的にはうちで過ごしていきたい、もちろん病状によってどうしてもということがないとは言いませんが、このように信頼できる仲間、あるいは同志ともいえる皆様に支えられて、これだけ充実して、これだけ私のことを尊重してくれる皆様に支えられている、最高の環境で、少しでも自分らしい姿や、言葉や、映像や、存在そのものを示して、そのことに少しでも触れて何か考えていただく人が増えることが、できれば、私今日56歳の誕生日だったんですけれども、この56年間の人生、何の後悔もありません。小さな子どもがいるというこの一点のみ、非常につらいところはありますが、それでも、そのことの、そのことを私の子どもではなくて、これからの未来を担う子どもを大切にする社会をめざす人が、一人でも増えてくれるのであれば、今日こうやってお話をさせていただいたことを、本当に意味があったというふうに感じます。
そしてこの舞台を設定してくださった、会のみなさま、とくに山崎会長、本当にありがとうございました。私が選挙に出る中で、もっとも嬉しかったことの一つは、仮設住宅自治連合推進会という、あの混乱の中で、仮設住宅のまとめ役を、仮設住宅の住民側のいわゆる自治会の代表をつとめていた山崎会長とのおつきあいが非常に感銘深かったことにあります。大橋地区という大団地をまとめあげ、えてすれば、行政批難がたくさんでる住民さんをまとめ、的確にそれを処理しつつ、行政に対しても適切なアドバイス・要望を出されるその姿、本当に尊敬に余るものがありました。山崎会長がいなければ、石巻の復興、仮設住宅の運営はもっと悲惨だった、もっと行政と住民が対立したと私は確信しています。私は行政の中に入り、一方で震災支援に来たという立場で、住民に比較的受け入れやすい立場で、山崎会長は住民側に立ち、工業高校の校長先生だったという実績と抜群の人格をもって、住民側の代表として、二人でその対立構造を少しでも減らすようにしてきた会長が、高齢にも関わらず会長を引き受けてくださり、そして今まで応援をしてくださった。このことが私にとって本当に何よりも嬉しいことでありました。つまり、私を応援してくださっている皆様は、おそらくそのことによる、いわゆる利害関係はほとんどないにも関わらず、同じ志を持ち、そして今を憂い、将来を考える、そういうった人たちだったということで、そういったものがこれからの石巻を担う若い人をどうやって支えはぐくむのか、あるいは支援をしていくのか、私を応援する会として立ち上がった組織ではあると理解しておりますが、ぜひ今後、そういった多くの若い人たちを応援し、そしてよりよき石巻をめざす人たちが応援することで羽ばたいていくような、そのような活動に広げていただければと考えています。
地域包括ケアの推進や、少子化問題に取り組むこと、こういった専門領域が大きくかかわる領域と、住民さんの意識を少しずつ関心を高めることによってその問題は自分たちの問題であるのだときづいていく、そのようなことをできる会だと私は信じていますし、ぜひ、会の継続と発展をお願いしたいと、心から願っています。
繰り返しになりますが、私は、医師でありながら、気づかなかったのかと言われるのかもしれませんが、残念ながらそういうことがありうる、すい臓がんの非常に進行した状態で見つかり、わずか数週間前までは仕事をしていましたが、現在は食事をまったくとれず、冒頭繰り返す状況で、ただおなかが張って苦しいためにほとんど眠れないような状態が続いています。早ければ数週の可能性があると考えていますが、それでも最期の最期まで自分の思いを通させていただく、そしてそれを多くの人が支えていただく。専門職は専門職として最大の力を発揮していただいて、全力で支えていただいてますし、会の方をはじめ多くの有志の方が、現在私を支えてくださっています。そのような状況で、私としては自分のまとめることがたくさんありますので、このような形での発信はできれば今後も続けさせていただきたいとpもいますが、個別のご挨拶やお見舞い等は、あるいは問合せ電話等は困難であると考え、今回、このような形で発表させていただきました。会の事務局の皆様が協力して、ある程度は対応していただけるとは聞いていますが、ぜひこの状況をご理解いただければと考えております。56歳の誕生日にこのような発信をすること自体、残念と言えば残念ではありますが、繰り返しになりますが、私は大したタマでなかったはずなのに、それなりに全力に近い形で走り続けられた、そして今そのことを認めてくださる方々に囲まれて応援されている、そのことが、何よりも嬉しく、本当に恵まれた人生だったと感謝しております。
(00:55:00)
本当に皆様、ありがとうございます。
本当に最後になりますが、在宅医療、在宅ケア、地域包括ケア、日本一を目指した医師が、このように恵まれた環境で最期を迎えられることを、これが当たり前になっていく、そのためには社会保障の仕組みも考えなければいけないかもしれないと思います。そのような社会を目指してくれる方が増えることを祈念しております。食べられない状態でも、イレウスという腸閉塞といわれる吐き続けるような状態でも、それでもいろんな工夫をすることで、おうちでこのような配信をさせていただく、本当に恵まれた一生だったと考えています。あと残された時間で、私は、自分が思うこと、辿って来た道、そして僭越ですが言い残したいことを言い残させていただき、その中でもし皆様が少しでも何か感じることがあればそれに勝るものはないと考えています。本当に皆様、ありがとうございました。こんな姿で、こんな姿勢で、大変申し訳ありませんが、これにて私からのメッセージを終了とさせていただきます。本当にありがとうございました。
― 質問紙によるマスコミ質疑応答 (1:01:11)―
はい、いま質問をいただいたことですが、復興公営住宅、被災された方々に伝えたいことは何か、どう見守っていけばいいかということが届いています。
伝えたいことは、まだまだ大変な皆さんがたくさんいらっしゃることを承知しています。だから、あゆみ野・のぞみ野地区で被災された皆様の身近でと診療を引き受けたことがありました。実は心の傷を深くおった方が少なくありません。いわゆるPTSDという心の傷が残っている方々、だいたい週に一人私が診ているだけでもみつかっています。内科で睡眠薬を受けている方々、不安をとる薬だけ飲んでいる方々がほとんどです。精神科や心療内科にかかっていても実はPTSDと診断されていない方が普通にいらっしゃいます。眠れない、意欲がない、悪夢をみる、これらがある方は、そのことをしっかりと訴えて受診されるといいと思います。それとともにコミュニティ形成が難しい中で、少しでも皆さん、コロナの不安がありますけども、少しずつコミュニティ活動というか社会参加をしていただくことが大事だと思います。 そして見守りに関しては、もう計画その他でたくさん私は提案をしています。このことを特に新しく議員になられた皆様がそういった資料をちゃんと確認していく中で、特に復興公営住宅を中心に、24時間の医療と看護は構築できているんですね、ただしそれを使えるのはかなり重度の方です。軽度の方が使うためには、ヘルパーさん、住民の自治的機能が必要になります。これをちゃんと構築できるように、私はずっと前から提案しています。それを調べていただき、メディアの方とも協力しながら、ちゃんと安心できるセーフティネットを構築することは可能だと思います。
他になぜ6月21日、今日だったのか。これは私の病気がみつかってから、まだ20日たっていません、20日目です。その間にさまざまな治療の体制を整えるとともに、会の皆様に当初からこういう場を作ってほしいとお願いしたこと、そこからのタイムリミットというか、この日というのが大きくありました。私の誕生日だったのはある意味偶然だったと思います。それ以上のものではないということになります。選挙に入ってしまうと、政治活動とみなされるということも多少ありましたが、とにかく至急準備をしていただいて、今日だったと理解しています。
(質問の確認 お子様にどのように… という質問 聞き取れず 01:05:12)
まだ小さくて理解できません。
(お子様に一番伝えたいことは)
子どもに伝えたいことは、申し訳なかったということと、その中でも
いわゆる家庭における父という役割は果たせなかったけど、子どもを大事にする社会を目指して、たたかっていたということを、そうみなしていただけるなら、伝えていただければというふうに思っています。子どもが大事にされる社会が来ることを目指して、ある意味政治に出たと。その一つは子どもを生んだことであったかもしれません。