時の隙間
取調室の前には、人だかりが出来ていた。県警一課長・日村が、自ら取り調べを行うというから、野次馬の刑事たちが見物に来たのだ。マジックミラーの向こう側には、日村と50絡みの女が相対している。
「オフレコでやりたい」
そう言い放ち、日村は取調室に入った。つまり、外から話し声を聞くな、と命じたのだ。取り調べの可視化が叫ばれている昨今、通常では許されないが、一課長のひと言は世間の潮流よりも重い。誰も、会話を覗き聞くものはいなかった。
女の名前は、新崎慶子。場末のスナックでママをしている。売春の斡旋で引っ張られたが、これは、完全な別件逮捕。慶子の男が、先週強盗殺人をやらかした。潜伏場所を聞くのが、真の目的だった。慶子は、なかなか口を割らない。拘留期限は迫っていた。膠着状態を打開するために、日村自ら参戦した。誰もが、そう思っていた。ところが、かれこれ30分。女を前に、ひと言もしゃべらなかった。女の方も、日村の顔をまともに見ることさえしない。ようやく、日村から出たのは、実に意外な言葉だった。
「ひさしぶりだな」
慶子は、下を向いたままわずかに頬を緩めた。その表情を見て、日村は確信した。やはりそうか。女は、まさしくあの時の慶子だったのだ。
漆喰の闇。35年前、15の冬の夜。日村は、深い森の中で慶子を待った。二人で死ぬ約束をしていた。今考えても、はっきりとした理由は思い浮かばない。とにかく、何もかも嫌だった。全てが欺瞞に満ち、己の都合のみを主張し、狡いヤツだけが生き残るこの世界から抜け出したかったのだ。
「日村くんがその気なら、私が一緒に死んであげる」
思いを打ち明けると、慶子は、こともなげに言った。優等生の日村が、ろくに学校に来ない問題児・慶子が付き合っていたことは、周囲の誰も知らなかった。燃えるような恋だった。どうせ死ぬならば、この女と死にたい。日村に迷いはなかった。それでも、寒々とした冬の森に、慶子は現れなかった。
「俺は待っていた。夜の静寂に耳を澄ませ、君の足音が聞こえてくるのをひたすら願った」
「あの時も言ったでしょう。本気にする方が馬鹿だって」
すっかり擦れっ枯らしのくたびれた中年女に成り果てた慶子は、鼻で笑った。
「私が行ったら、本当に死んでたの」
「ああ」
「嘘」
「嘘じゃない」
日村は身を乗り出し、強い瞳で慶子を見つめた。その迫力に気圧されたのか、慶子は吐き出すように言った。
「行けなかった」
「なぜ?」
慶子は唇を噛みしめる。
「破滅…私は、男を破滅させる」
怯えていた。取調室に入り、一度も感情らしい感情を表出させなかった慶子がはじめて揺らいだ。日村は、さらに一歩慶子に近づいた。
「君は勘違いしている。あの時死にたいと言ったのは俺だ。君じゃない」
「私と一緒にいたから、言ったのよ」
「そうじゃない」
「私がいなければ、こんなことにはならなかった」
「勝手に責任を背負い込むな」
35年。月日は流れた。日村は何度、あの夜の夢を見ただろう。暗闇を彷徨い、慶子を探す。しかし、探しても探してもどこにも姿は見えない。
「君のせいじゃない」
日村は諭すように言った。警察という組織に身を置き、時に組織のために泥を被ることもあった。他人を蹴落とし、足を引っ張り、のし上がってきた。結局、日村はあの日、なりたくなかった大人そのものになったのだ。
「殺したのは君じゃない。あの男だ」
日村は決然と言い放つ。隔たる時の隙間に、杭を打つようなひと言だった。慶子は堰を切ったように泣き伏した。
「行きたかった。行きたかった。行きたかったのよ、本当は…」
それから、慶子が男の居場所を話すまで、ほとんど時間は掛からなかった。
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