虐待体験記

虐待の経験を元に、「児童虐待防止」の公演を行っています。 私の体験を話すことで誰かの役…

虐待体験記

虐待の経験を元に、「児童虐待防止」の公演を行っています。 私の体験を話すことで誰かの役に立てるなら。 投稿はマイペースでやっていきます。 Twitter @stop_abuse_sce   http://siwo.inoken-spacecowboy.com/

最近の記事

母の体裁

小学校6年生の時に、謝恩会の準備の際、木製の椅子を運んでいる時に少し古い椅子だったので背もたれの部分が老化していて、杭が爪の白い部分まで刺さった事があった。 保健室に行って、「自分で抜いてみな」とピンセットを渡され、苦痛で顔を歪めながらなんとか自分で抜こうと頑張ったのだけれど、痛みに耐えきれなく結局は抜けなかった。 今だったら多分問題になるような笑 二時間ぐらい格闘して、ようやく見かねた先生が親に連絡したのだが、母親は一時間ちょい後に現れた。 ばっちり化粧とおめかしをして

    • 明けましておめでとうございます

      明けましておめでとうございます。 今年はイベント開催できるよう、走ります。 昨年お世話になった方々も、今年お世話になる方々も皆様よろしくお願いいたします。 誰にも頼れず一人きりで泣いている子どもが一人でも減りますように。

      • 子どもの権利と子どもアドボカシーを拝聴して

        11/19(土)に行われたベネッセこども基金さんによるイベントに参加させていただきました。 ちなみにアドボカシーとは「権利擁護の主張」です。 「セーブ・ザ・チルドレン」の西崎さんによる講演。 ■子どもの権利条約について ・まずこの「子どもの権利条約」をそもそも国民の8割が知らない ・一番子どもに身近な大人の教師で知っている人5割、全く知らない人は3割 「どれがこどもの権利だと思いますか?」という10項目の中から選択するアンケートを実施したとの事。 その中で驚いたのは

        • 全国教育委員会に案内を送付しました。

          全国46都道府県+東京22区に「虐待サバイバーBANK」の案内状を送らせて頂きました。 (新潟県と大田区は営業禁止との為除く) 教育委員会窓口ない場合は各知事様、広報様宛です。

          食への興味がなくなった

          ふと思い出したその昔まだご飯があった時の話。 前述したように父はほぼ家にいなかったので食事をとるのは母、私、妹の3人だった。 食事はダイニングテーブにベンチとイスが二脚あったのでそこでとっていた。 妹が一人でベンチに座りテレビの正面が席だった。 母は長方形型のテーブルの短辺に座り、同様にテレビの正面の席だった。 私はテレビに背を向ける位置のイスだった。 私は食事中のテレビは絶対に禁止だった。 (正確には食事中以外も禁止だったのだが) 1秒足りとも振り返ることは許されない。

          食への興味がなくなった

          ネグレクトができるまで

          母は華奢であったので、小学校高学年の頃には力で負けなかった。 初めは力で言うことを聞かせようとしていた母。 といっても主に物を投げたりだが、たまに慣れない暴力をふるってきた。 もちろんベタに包丁を持ち出すのは日常茶飯事。 力技は全く効かなかったし、とっくみあっても倒れないし、勝てないと気づいてからは食事抜きで言う事を聞かせようとしてきた。 ある日、「もうお前に一生ご飯を作りたくないから1日1000円やるからそれで生きていけ」 と言われた。 私は物凄く嬉しかった事を覚えてい

          ネグレクトができるまで

          ストリートチルドレンができるまで

          玄関の鍵は2個あったが、きっちり2個閉めたうえにチェーンロックまでして閉め出さられた。 家に入ったら泥棒扱いされ、しょっちゅう家に入れなかった。 毎日夜中まで窓を叩いていたので、近所中知ってたはずだ。 私はどこからかハシゴを持ってきて、2階に伸ばし、あらゆる窓を外せないか毎日試した。 その内馬鹿らしくなって諦めた。 夏はどうにでもなる。 問題は冬なのだ。 私は田舎出身なので店なんて早くに閉まってしまう。 公衆電話は下が開いていて、足を上に上げながらどうにか寝ようとするが

          ストリートチルドレンができるまで

          虐待で1番辛かったこと

          私が母親に受けた虐待は 身体的虐待 ↓ 心理的虐待 ↓ ネグレクト という感じで推移していった。 言う事をきかす為に力では勝てなくなったから、心理的に追い詰めたけど、それでも思い通りにならないから放棄したといったところだと思う。 私の虐待の中で私が1番きつかったのは、断トツでご飯が食べれなかった事。 他はこれに比べればなんてことなかった。 学校がある時は給食を食べられるので、ご飯やパンの余りは全て持って帰っていた。 腹がへったらおにぎりやパンを食べていた。 長期休みは最長

          虐待で1番辛かったこと

          写真を撮る母

          お風呂にまだ入れていた頃の話になるが、真冬に風呂に入った瞬間にガスをよく切られていた。 当時はガスのスイッチが、脱衣所の外のリビングにあった。 母が消した後は、私がすぐ出てきてガスをつけれないように、脱衣所のドアを全開にしていた。 リビングで母が、ニヤニヤしながらずっと待ち構えていた。 小学生の思春期だったので、恥ずかしく出れなくて風呂で最長2時間凍えていた事がある。 死ぬかもしれないので出ていくしかなかった。 そのうち、もう見られてもどうでもいいやと、ガスを止められても

          写真を撮る母

          日本は虐待の勉強を必須にすべき

          「虐待の冤罪と向き合う」https://note.com/inoken7/n/n8bd2b184e7c1 の続きとして書く。 虐待の勉強をもっともっと日本国民はしなければいけないし、義務化するべきだと思っている。 誰から教えてもらう? もちろん虐待経験者から。 野球全く知らない人に野球は教えてもらわない。 楽器が全く弾けない人に楽器は教わらない。 もちろん、一流プレイヤーと一流教育者は全く別物。 だが、全くの未経験者が教えられる事は少ないし、納得させられないのではないか?

          日本は虐待の勉強を必須にすべき

          虐待の冤罪に向き合う

          虐待を防ぎたいのであれば、虐待の冤罪にもしっかりと向き合わなくてはならない。 その線引きができるのもまた、虐待経験者にしか出来ないのではなかろうか。 私の子供の頃には聞いた事がなかった、「AC」「毒親」「虐待サバイバー」「親ガチャ」などの言葉がかなり浸透している。 浸透するのは良い事だと思うのだが、その為か本当に虐待?と思うような事までも、虐待と騒がれている事があるような気がする。 「本人が虐待と言えば虐待である」 といった風潮は決して良くないと思っている。 本人が虐待と

          虐待の冤罪に向き合う

          真冬は冷水でシャワー

          前述したように、私の家はリビングに風呂場と洗面所があった。 脱衣所に洗面所があって、そこに家の全てのブレーカーがあった。 中学生の頃そこに南京錠をつけられた為、風呂に入る事ができなかった。 もちろん最初から入れないわけではなかったが、最初は風呂に入るのは21時までと決まりができた。 理由はシャワーの音が近所迷惑になるから。 ちなみに普通の一軒家である。 そこから朝食の時同様だんだんと時間が早まり(詳しくは消えた朝食前後編https://note.com/inoke

          真冬は冷水でシャワー

          ウイルスと虐待と。

          令和2年度の児童相談所による児童虐待相談対応件数は約20.5万件。 1日に562件の相談件数。 うち保護児童数5,500人 検挙状況 2,133人 死亡事件は61人 6日に1人が虐待で死亡 目に見えないウイルスには色々な対策を考えて大騒ぎするが、虐待の件で騒ぐのは死亡時のみ。 しかも、最近では母親擁護の声がかなり上がっている。 その風潮は本当許せないね。 擁護者全員来世経験させてやれ。 確かにウイルスの感染者数や死亡数に比べればかなり少ないかもしれないが、自然界で発生した

          ウイルスと虐待と。

          虐待はなくならない

          さて、初めて私の思いを書いてみたい。 まあ、賛否両論あるだろうが、いや、そもそも見る人ほとんどいないからないか。 色々な考えがあるからね。 簡潔にいこう。 私の考えでは根本的に虐待はなくならないと思っている。 どうゆう角度で考えてもなくなるはずがない。 ただ、「虐待はなくなる」を掲げて活動している立派な方達を否定しているわけではない。 活動はそうゆう気持ちでしないといけないし、 もちろん、なくなって欲しい。 一番に、どうゆう活動であろうと、「虐待をなくす」活動を行うことは

          虐待はなくならない

          母と南京錠と

          私の過ごしていた家は二階建て一軒家である。 1Fにリビングと和室の二部屋あり、和室は父の部屋となっていた。 更にリビングの中に風呂と洗面所があり、トイレは玄関すぐの2階へとあがる階段の隣にある。 2階には母の部屋と妹の部屋と私の部屋があった。 母と妹の部屋は繋がっていて、私の部屋だけが廊下を挟んで離れていた。 母はリビングと妹の部屋、母の部屋にいつの間にか南京錠をつけた。 私が入れる部屋は自分の部屋と父の部屋とトイレであった。 父はあまり家にいなかった。 母はリビングに

          母と南京錠と

          冷蔵庫を開けるには許可がいる

          わたしの家の冷蔵庫は、勝手に開けてはいけなかった。 許可をとり、開けて良しと言われなければ当然ながら、開けてはいけない。 開ける際も一瞬で必要なモノをとり、一瞬で閉めなければ次回は開けさせてもらえない。 電気代がもったいないそうだ。 開ける時は監視され、ひどい時はタイムを計られた。 冷蔵庫を開けたい時は飲み物をとる時だけだ。 飲み物は牛乳しか選択肢がなかった。 牛乳だけはいくら飲んでも何故か怒られなかった。 牛乳は体に良いと言うことなのだろうか。 今では牛乳が嫌いだ。 友

          冷蔵庫を開けるには許可がいる