見出し画像

子どもの権利と子どもアドボカシーを拝聴して

11/19(土)に行われたベネッセこども基金さんによるイベントに参加させていただきました。
ちなみにアドボカシーとは「権利擁護の主張」です。

「セーブ・ザ・チルドレン」の西崎さんによる講演。

■子どもの権利条約について

・まずこの「子どもの権利条約」をそもそも国民の8割が知らない

・一番子どもに身近な大人の教師で知っている人5割、全く知らない人は3割

「どれがこどもの権利だと思いますか?」という10項目の中から選択するアンケートを実施したとの事。
その中で驚いたのは、「子どもは何も決められないから全て大人が決めるべきだ」に対し、2割もの教師がこどもの権利と答えている事。

条例とかって文言が難しくて、結局どうゆうこと?ってよくわからなかったりするんだけど、(どうしても短くまとめようとするとそうなるのだろうが)こちらの【ほいくらし】さんの記事が個人的にはとても分かりやすかったので参考までに↓
子どもの権利条約とは?条文の内容をわかりやすく解説 | 保育士を応援する情報サイト 保育と暮らしをすこやかに【ほいくらし】 (mynavi.jp)


「子どもの声を聴く」の渡辺さんによる講演

■こどもから声があげにくい原因を説明。
■スウェーデンではこどもの権利条約は国内法。
国として色んなツールを使い宣伝することで、声をあげやすい体制を整えている。
■「子どもの声を聴く」といて行っている児相訪問アドボカシーとは
児相(一時保護所)に訪問し、子どもと遊びなどを通じて話を聞く活動。
子どもの声を直接拾い権利を守る


参加者の質問を登壇者たちがディスカッション

■教員に「子どもの権利条約」を浸透させるには
・教員になる時にこどもの権利条約を覚えてから
 現状学校で必ず教えないといけないとは決まっていない
・教育委員会やPTAに子どもがいない
 現場の子どもが変えていく
 海外では予算会議に子どもが参加

■子どもの声を家庭で聞くには
・子どもの目線に合わせて話す。(物理的に高い位置から話すのではなく)
・大人自身も権利が守られているのか、大人自身もコンディションを整える
・見えるところに掲示する

スウェーデンでは、有名アーティストが楽曲にしそれがヒットすることでムーブメントになった。

■自分の意見を言えない子どもの意見を拾い上げるのは
・子どもの観察
・誰でも意見が言えない可能性があるのでは?と考えることが大事

スウェーデンでは1970年代に体罰禁止となった時、子供が育てられないと住民の猛反対があった。
いまではようやく「体罰なんてありえない」ものになった。
短期的にではなく長期的な一人一人の行動が大事。
イギリスにスウェーデンにしろ、市民の活動が活発であった。


■こども達に声を聞くための工夫
・とにかく一緒にいてとにかく一緒に遊ぶ


個人的感想
子どもの権利に関してはかなり難しい問題だと思っていた。
何が難しいかといえば、線引きである。
例えば、子供数人が同じおもちゃを欲しがり、同じように権利を主張した時にこれを暴力で解決しようとすることって意外と自然な事だと思っている。
各子どもは自分だけが使いたいがためにこの権利を主張できるわけだ。
解決策としてはじゃんけんでもしてお互いに時間を決め順番に使う事なんだろう。
しかしそんな事を自ら思いつく子どもはそうそういないだろうし、思いついたとしてもその子どもには永遠に順番が回ってこないだろう。

だから多くの場合は必ずそこに大人が介入する事になる。
しかしどこからが教育で、どこまでの権利が主張できるのかの線引きが、いわゆりきちんと決まっているわけではない個々の「常識」で線引きされてしまうのではないだろうか。
だからその「常識」のズレによって今度は大人が揉めるのである。

私にも子供がいて、この辺日々思うことがある。
例えばマンションで夜に足音をドンドンするな、大きい声をだすな近所迷惑になるという問題。
でもこれって実際怒られたり迷惑がられるのは親。
騒音に怒鳴りこんできた人が「親は関係ない、子供がやってるんだから子どもを出せ」とは言わないのではないだろうか。
子どもを制御できない親のせいだと責められる流れになるはず。
そう考えると、結局自分が怒られるのが嫌だから静かにしなさいと言っているのだろうか。
下の人に迷惑になるから?
では迷惑になったら何故いけないのか?
何故?
怒られるから?
下の人は何故ドンドンされたら嫌なのか?
うるさいから?
うるさければ何故いやなのか?
子どもが飛び跳ねる事自体別に悪いわけではない。
子どもに、この場所ではダメだとか、この時間からは静かにしないといけないとかいう分別がつくはずはない。
そんな事ほとんどの人がわかっているのではないだろうか。
結局は自分が不快な思いをしたくないという事にいきついてしまう。
その個人個人が不快な思いをしないように気を遣いあおうぜという大人の「常識」とやらに子どもが巻き込まれているだけにも見えるのだが・・。

ご飯を立って食べたらいけないのは何故?
おしっこを漏らしたら何故いけないの?
泣いたらいけないの?

などと、色々な考えがぐるぐると回って何が正解なのか分からなくなってしまう事がたびたびある。

登壇者の西崎さんも日々の子育ての中で同じような事を仰っていた。
彼女の子どもが夜ゲームをどうしてもやりたい時に、子どもの権利を主張されたとの事だが、寝るのが遅くなれば明日学校に遅刻するといった思いから子どもに止めるよう言い聞かせようとするのだが、反論されて「難しい・・・」と嘆いていた。

そのお話を聞いて私は逆に安心した。
ヘンなのは自分かと思っていたからだ。

やはり大人でも難しい「倫理」や「道徳」といった類を子どもに理解させるのは並大抵なことではないと思う。
しかし、だからこそより一層教えていかなければならない事だ。
そしてそれらの事は国語や英語や数学よりもはるかに大事な事ではなかろうか。

国として認められない事、認めていない事、認めたくない事、認めない事、認めたい事、それぞれに凡人には分からない色々な理由があるのだろうが、未来を担う子ども達に関わる事は是非とも「最優先事項」として取り組んで頂きたい。

そもそもピンポイントに子ども達の直接の声を聞く、聞こうとする活動というのは本当に素晴らしいと思うし、絶対に必要な事だと思う。
どうゆう聞き方してとか、そうゆう事は専門の彼らに任せておけばいい。
きっと良いやり方を毎日試行錯誤しているだろうから。

それよりも聞いた後のどんな大人が処理をするかで大きく変わると思う。
せっかくこうゆう人たちが素晴らしい活動で現場に立ち、子どもの声を直接拾い上げても、しょうもない大人に流されませんようにとただただ願うばかりである。
その部分で動かなければいけない所、変えないといけないところは多かれ少なかれ存在する。
彼らの思いをきちんと感じ取ってやるべきことをやっていく。
バトンをしっかり繋いでいく。
このバトンを繋ぐ役が非常に大事であり、これを未来に繋げていく。
この役をできる人は限られている。
大人がこれが出来ないのに子どもに権利の話なんて伝わらないのではないだろうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?