memento mori × maternity
「出産は命懸け」についての私見をまとめました。
長いので、要点を先に。
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・最も命懸けなのは産まれてくる子供である
・医療の発展が命懸けの出産リスクを劇的に下げた
・一部の医療従事者は、命懸けの出産を望んでいる
・"それでも命を迎えたい"と命を懸ける人との違い
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命懸け「じゃない」妊婦への迫害
先日、モテコンサル・勝倉氏が燃えていた。
命懸けを経験したという方々やその関係者、各種男女論者、野次馬、果ては医療従事者まで、多彩な大人にしこたま怒られていた。
よく燃える女性なのだけれど、今回は火柱だった。
怒られること自体はさもありなんと思う。
彼女のポストは四方八方に発射されるので、散らばる文脈をかき集め、真意を探ることが難しい。
とはいえ、異様な光景だった。
出産は命懸けだと叫ぶ人たちが、教義に反する(と見做した)妊婦を炎に焚べる。異端審問のようだ。
勝倉氏が無痛分娩を選択していることを腐す人たちもいた。出産を軽視する妊婦が無痛分娩を選択するのは矛盾している、とのことだった。
(勝倉氏を指しており、実際は軽視してないとしても受け手が判断するものというハラスメント論理)
矛盾してないだろ、と感想を述べたらお返事をいただきずるずると会話、最終的にひょっこり出てきた人に負けを宣告される不思議な結末を迎えた。
暇な方はツリーを眺めてみてください。
Xっていろんな人がいるね。
それはそれとして、私では到底思い至れない前提条件を教示していただけたのは収穫だった。
「無痛分娩は命懸けのチート」だそうだ。
富士山頂まで車で走るレベルのチート、とのこと。
命懸けだから、命懸けじゃない妊婦の利用は許容できないって。
私は、無痛分娩は痛みの軽減による体力の温存がベネフィットであり、『仕事や家庭に早期復帰したい人』のニーズに則した高度な医療技術だと思っていた。勉強になりました。世界線がちがった。
『命懸け』と『九死に一生』のちがい
さて、当該界隈では
「命懸けの出産における主役は母親(女)である」
というのが常識だ。
しかし、世界線のちがう私はそう思わない。
本来、出産で命懸けなのは産まれる子供である。
母の胎に宿った瞬間から、常に死と隣り合わせ。
流産、中絶、何らかの要因による成長阻害、死産、いざ産まれるときには(経膣分娩であれば)狭い産道を正しく回旋しなければならず、ようやく無事に誕生したかと思えばその場で殺されるリスク。
無力な命が、命を懸けて産まれるフロー。
これが命懸けの出産。これが大前提。
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今の日本では、妊娠が判明すると、
①母子手帳を貰い
②定期的に検診を受け、母子の健康状態などを医療機関に管理してもらう(場合によっては管理入院)
③陣痛が始まれば病院へ向かい、医療従事者のサポートやケアのもと出産
…という流れが一般的だ。
つまり、すべてが受動的なのだ。
バースプランなんてのも、ただの要望リストだ。
陣痛促進剤やバルーンに耐えるのも、いきみ逃がすのも、いきむのも、指示に従うだけ。
そりゃめちゃくちゃしんどいしクソほど痛い。
でも思い返すと私が命を懸けるところはなかった。
そうならないように医療が護ってくれるからだ。
母親主体で、命懸けでできることなんて何もない。
また、私事だが息子は旋回異常だった。
必死に助けてくれたのは医療従事者の方々で、私は(いきんでも出る感じがないな、あれー?)などとボンヤリ考えている間に酸素マスクをつけられ、指示されたタイミングでいきみ、吸引カップに引っ張られ、息子はこの世に誕生した。
また、これも私事だが、娘が産まれて退院直後に私は乳腺炎になった。
ガチガチの乳を抱えて産後の半月検診に赴き、母乳マッサージを受けることになった。
結論から述べると、神はおわした。
「痛かったよね、がんばったね」と言われながら1分も経たずに母乳が噴水のように放出した。
直後、娘に授乳するとごっくごく飲んだ。
フィジカルやメンタルに滞ってたものが一気に流れて私は泣いた。
助産師や産科医の方々には、たいへんお世話になった。おかげさまでふたりとも元気に成長している。
感謝している。私だけじゃない、数多くの母子にとっての命の恩人だ。
本当に、ありがとうございます。
…という体験があるので、たとえば産後の出血多量で生死を彷徨った母親が
「命懸けで生還した」
と語ったとしたら私は違和感を感じる。
「医療のおかげで九死に一生を得た」
ではないのかと思う。
もちろん医療は魔法じゃない。
亡くなってしまう人だって当然いる。
でも、そういうリスクを劇的に減らしたのが医療技術の発展ではなかったか。
だから妊婦は産婦人科に向かうのではないのか。
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今更だが、「命懸け」とは様々な意味をもつ。
命懸け界隈の本意は、このあたりかな。
"命を捨てる覚悟であること"とおっしゃる方もいた。
だから女には相応の優遇を、という文脈だろう。
そういう思想を持つ人がまったくいないとは言わないが、ほとんどの女性は出産に命を捨てる覚悟を持たないと思う。
捨てたくないから医療に頼るのだ。
自分と我が子が、命懸けに陥らずにすむように。
母として生きていくために。
少なくとも私はそうだった。
あなたや、あなたの周りの母親はどうだろうか。
では、母親が命懸けを味わう出産とは何か。
医療を受けられない出産のことだ。
今の日本でいうと、たとえば孤立出産。
高リスクの高齢出産を例に出す人を見かけたが、私の中ではあれを命懸けとはいわない。
孤立出産を除くほとんどの出産の主体は医療従事者であり、出産の主役は産まれてくる子供たちだ。
しかし命懸けを声高に叫ぶ人たちにとっては、主体も主役も母親である、という認識のようだ。
医療はあって当たり前、という感覚なのかもしれない。訴訟リスクが高まる理由も理解できる。
とても残念な考えだと思う。
出産は命懸けであってほしい医療従事者
冒頭の件に戻るが、勝倉氏をしこたま怒る人たちの中には"医療従事者"の方々がいた。
①出産には、現代医療をもってしても払拭できない突然死のリスクが付き物だ
②我々産婦人科医は自己犠牲を払ってでも母子共に救えるよう力を尽くすので、ご本人も命懸けで挑んでいただきたい
③民草は、勝倉氏の切り取られた言葉で"出産は楽なものである"と曲解してしまう
④出産は命懸けであるという認識を、すべての人と共有したい
意訳すると、こんなところだろうか。
で、彼らが最も心配しているのは恐らくココだ。
たとえば…
出産は楽なものだと油断した妊婦は、産科医の指示を聞かずマタ旅を楽しみ、検診をサボり、トラブルが起きてから慌てて駆け込んでくる。
出産を大したことないと認識した夫は、悪阻や産後の体調不良の訴えを一蹴し、家事育児のすべてを押し付けた結果、妻が倒れ慌てて駆け込んでくる。
出産をナメた社会は、検診の補助や出産育児の支援金を削り出す。
医療従事者は仕事を軽視され、負担は増すばかり。
そりゃやるせなくもなるよね。
理解できなくはない。
「出産は命懸け」の副作用
馬鹿はどこにでもいるし、そうじゃなくても必死に救おうとして救えないこともある現場にいる方々が、勝倉氏の放言に抗議し、撤回してほしくなる気持ちは想像できる。
だが、そこには呪いにも似た副作用が現れる。
件の火種でもある、「出産は命懸け」界隈の存在。
医療従事者たちが期待するようなマインドなど、そもそも有していないのだ。
「出産の痛みは男にはわからない」
「出産のダメージは車で轢かれるのと同レベル」
「男の産科医はキモいから診られたくない」
「妊娠出産は女にしかできない命を懸けた大仕事」
「妊娠出産を経験せずに父になれる男はズルい」
「産前産後は夫がすべての家事育児を担うべき」
「産後の恨みは一生」
女の妊孕性に対する過剰な礼賛と男への過度な差別感情を正当化したくて、「命懸け」を利用しているだけだ。医療に対する尊敬や敬意など微塵もない。
そこに処方した言葉がどう作用するのか。
子を宿した喜びと、未知の不安を抱えながら産婦人科を受診する女性たちには、どう作用するのか。
こう考える人がいる。
「出産は命懸け。命を捨ててまで産みたくはない」
こう考える人もいる。
「出産は命懸け。最大限の尊敬と敬意を寄越せ」
(※産むとは言ってない)
「命懸け」のリスクを下げられる唯一の存在が、出産を命懸けだと語ることの重さに気づいてほしい。
今回の件については、
「但し我々の指示に従わないと、命懸けのリスクは跳ね上がります」
そんなスタンスでは駄目だったのだろうか。
…まあでも「従えばリスクゼロ」と曲解する馬鹿が出てくるだけか。駄目だったんだろうな。
訴訟リスク高いし。
だからせめて、出産し子育てを経験している私たち母親ぐらいは、新たな命を宿した女性に
「大丈夫だよ、きっと元気な子が産まれるよ」
と伝えていかなければいけない。
不安を抱えたまま匿名SNSに毒されてしまう前に。
これは、母になった人間だからできる仕事だ。
男にはできない。
もちろん、産んだことのない女にもできない。
"それでも命を迎えたい"
最後に、妊産婦・新生児死亡率が世界最悪のアフガニスタンにおける、出産事情の記事を紹介したい。
"少なくとも読み書きができれば"
どころか、充分な教育を受けられる日本女性の
"夫と対等に話し合おうという気持ち"
を表現すると、「出産は命懸け」だというのは、あまりにも稚拙じゃないか。
産む自由も産まない自由もない人たちが、
"それでも命を迎えたい"
と「命懸け」で出産に挑む。
どちらの自由も謳歌できる人たちが、妊孕性に対する過剰な礼賛と男への過度な差別感情を正当化したくて「命懸け」を声高に叫ぶ。
この不条理はなんだろう。
懸ける命の価値は変わらないはずなのに。