反・斎藤幸平論――マルクス三昧(5)

 〔一〕ハル君への手紙 Ⅰ
 〔二〕マルクス・エンゲルス三読 上
 〔二〕マルクス・エンゲルス三読 中
 〔二〕マルクス・エンゲルス三読 下
 〔三〕ハル君への手紙 Ⅱ

〔三〕ハル君への手紙 Ⅱ

(1) 「脱炭素社会」と大工業
ハル君。
バイデン大統領の登場に合わせるように、日本政府も急に「脱炭素社会」を前面に掲げだしましたね。
この国際社会こぞっての脱炭素の取り組みで、再び注目を集めているのが、ハーバー・ボッシュ法の開発です。実はここにもリービッヒの影があります。
ある教科書風の記述(村上信明「補講1.ハーバー・ボッシュ法アンモニア合成、その開発の経緯」――現在リンク切れ)から引用します。
「ドイツのリービッヒが、「植物の栄養は土壌から吸収する無機元素である」と主張したのは 1840年である。ただ、植物栄養学の祖といわれるリービッヒも「窒素は空中からアンモニアの形で供給されるので肥料としては不要である」との誤った見解を示している。窒素を含む植物必須10元素説が確立されたのは、それから20年後である(現在では17元素となっている)。」
「1898年クルックス卿は、英国アカデミー協会の会長就任に当たって70分にも及ぶ演説を行った。「英国をはじめすべての文明国家は、来たるべき人口増と食糧難で、生死の危機に瀕している。ただ、この暗黒の中にも一条の光はある。それは空気中の窒素の固定である。窒素からつくられるアンモニアは肥料のもととなり、また硝酸は火薬の原料になる。これこそ化学者の才能に待つべき偉大な発明の一つである」」。
この提言の背景には19世紀後半期のパーキンやリーベルマン、グレーペなどによるアニリン染料、アリザリン染料の合成成功という下地があったことも指摘されています。
そして、ハーバー・ボッシュによって、アンモニア合成法の工業化に成功するのはこの演説の15年後のことでした。

同じように、いまや「脱炭素社会」に向けて大号令が国際社会に発せられているというわけです。しかし、クルックス卿の演説が「窒素固定」に絞ったようには、課題は絞られていません。まさに百家争鳴、百花斉放の状態です。
多くの萌芽的アイデアや発見の発表が乱発されています。いずれ、現代の資本と国家の要請に適応するものが選別され、資金の集中とともに研究者の自己活動の外観をとりながら研究者の集中も起きていくのでしょう。それが産学協同の正体なのです。
そして、資本制社会を前提する限りで、それらの大半が矛盾の解決ではなくて矛盾の転化にすぎないものであることは、この社会の根本的限界なのですが、その限りで、斎藤幸平も指摘する通りなのですが、ただたんにそれを指摘するだけでは、アルカディアやユートピアへの憧憬を語るにとどまってしまいます。
現存の資本と国家の要請を越えて、マルクス・エンゲルス風に言えば、プロレタリア的新社会、現代の流行風に言えば「オルタナティブの社会」は何を求めているのかを考えるとき、問われているのは、この社会の何を引き継ぎ、何を廃棄(止揚・揚棄)していくのかの大局観だと思います。潜在的な「新社会の要請」を意識化するためには、現在を歴史的に振り返る思考と、台頭していく社会的連帯が必要なのだというのが、マルクス・エンゲルスが強調したことだと思います。
そして、貪欲ともいえる、マルクス・エンゲルスの知識欲に見習い、専門性を超えて、私たちの結合=連帯から、見通しを語る必要があるのだと思います。
エンゲルスは、まだ電気利用が初発の段階にあった時代に、「電気の利用においてはわれわれにとって、エネルギーのあらゆる形態を、すなわち熱や機械的な運動や電気や磁気や光を、一方から他方に変え、またもとにもどし、こうしてそれらを産業的に利用する、という道が開かれ……円環は完結されている」と電気エネルギーの意義をまとめています。

原子力エネルギーはエネルギー転換という見地からすれば一方的で、その利用形態は蒸気タービンを媒介にした汽力発電でしかありません。そして、厄介な放射性廃棄物の処理は、将来の技術開発を待つというかたちで「先送り」されてきたのです。決して、最先端の技術という代物ではありません。

エンゲルスが認めた電気の意義は、半導体の発見・発明によって、太陽光エネルギーの電気エネルギーへの直接的転化の実現としてさらに大きく前進したと、歴史的に位置づけることができると思います。
ほかにも燃焼(熱エネルギー)を媒介しない水力・風力発電も見直されてきていますが、再生可能エネルギーの中心となっていくのは、――歴史的に見て――、この太陽光発電でしょう。
ただし、太陽電池の生産は大量生産にもとづくものです。太陽光発電に使われる太陽電池は元々モジュール化されているので、その性格上、集中する必要はありません。メガ・ソーラーなどは、資本主義の遺物的発想であって、大規模集中はあらたな弊害のもととなるでしょう。
一時期注目されたバイオマス発電は、貴重な有機体であるバイオマスを燃焼という形態で分解してしまうということで、エネルギー収支的に見ても有効な活用法とは思えません。バイオマスの研究・利用は今後ますます進むでしょうが、その活用は燃料という形態ではないと思います。

たとえば、斎藤幸平が『人新世』で、「NET(Negative Emissions Technologies)の代表例であるBECCS(Bioenergy with Carbon Capture and Storage)について考えてみよう。BECCSとは、バイオマス・エネルギー(BE)の導入によって排出量ゼロを実現しつつ、大気中の二酸化炭素を回収して地中や海洋に貯留する技術(CCS)を用いて、二酸化炭素排出量をマイナスにもっていこうとするものだ。」(『人新世』92~93頁)として、BECCSを取り上げて批判の俎上に載せています。
先に述べたように、BEというバイオマスの燃焼自体がバイオマスの無駄遣いであり、CCSという二酸化炭素の貯留も非現実的な構想で、論評に値しない代物です。だから、こうした最悪の一例をもってして、すべてのNET(大気中の二酸化炭素削減)を代表させるかのような批判は、たんなる否定で終わってしまいます。
大気圏内の二酸化炭素の人為的増加と地球温暖化に相関関係があるのはほぼ事実だとして、それが正のフィードバック(発散もしくは暴走)に入っているのだとしたら、たんに二酸化炭素の排出削減ではなくて、二酸化炭素固定として大気中の二酸化炭素削減はいずれにしても重要課題として浮かび上がらざるを得ないと思います。それは、現在の資本と国家が好んで選択する技術ではないかもしれませんが、「インターナショナルな団結で諸国政府に強制する」という途もあるのです。

(2) 廃棄過程の技術論
ハル君、次の文章は、ある学習会で提起したものの一部です。資本主義的生産の廃棄過程について簡単に考えたものです。ポイントは、土と海、微生物の働きです。

〈富(使用価値)のための生産ではなくて価値さらに剰余価値のための生産は、富の源泉である土地と労働を滅ぼすことによってのみ発達する――これがマルクスの資本主義批判の根本である。
労働の濫費に対しては工場法等によって制限が加えられたぶんだけ、資本は、土地の濫費、エネルギーの多消費に向かっていった。
そして、大工業によって露わになる「物質代謝の攪乱」の根柢には、廃棄過程は「費用の外部」として剰余価値を極大化するという資本主義の本性がある。廃棄物処理は「公共」の課題・負担とされて、資本による生産過程では無関心が続いてきたが、「空気・水・土地の有毒化」(『資本論』)に社会が耐えがたくなるにつれ、公共的規制も強まり無関心ではいられなくなってきた。しかし、廃棄物処理は工業的前処理が加わることがあったとしても、その最終処理は「土と海」すなわち微生物、微生物と植物との共生による代謝への依存であった※。

※ 放射性廃棄物の最終処理は放射性物質の自然崩壊を待つ以外にはないという意味で、この代謝に依存できない例外である。すなわち微生物による処理は不可能という絶対的な制限があるのみならず、核種変換(元素変換)は実験室レベルですら実用性に達することはできなかった。

現在の環境問題に迫られての、この廃棄過程の意識的確立が工業的である限りでは、エネルギー多消費の罠を抜け出すことができないであろう。無論、再利用可能な希少資源(レアメタル等)に関しては、旧来以上に回収(リサイクル)を考慮した生産過程に改良が進むであろうが、採掘費用との比較問題である(採掘労働の最低賃金の国際的大幅引き上げ!)。
ほとんど唯一の技術的可能性は、生物――植物+微生物――の代謝プロセスをその過程の不可欠の一環に含むものにしかないだろう。
しかし、生物の代謝プロセスは、分散的・自生的である。それが利点ではなくて欠点と考えられがちなのは、大工業の性格――集中化・大型化――に馴染まないからである。換言すれば、大工業的発想からの転換をもってしない限り、「人間と土地とあいだの物質代謝」の再建は、彼岸の彼方にあるということである。

「カオスとしての土」の研究が深まっていることは、
『生環境構築史 第2号』「序論:生環境構築史からみる土(藤井一至)」
https://hbh.center/02-issue_02/
などで示されている。同様の観点からの海の生態研究もなされているのだろうが、植物性プランクトン増殖というアイデアも海の(地学的、生物学的)生態解明をともわないままの「地球工学的手法」では、問題含みである。
参照:地球工学的手法の合意形成は可能か?-鉄散布実験を例として-津田敦
https://www.oa.u-tokyo.ac.jp/researcher-story/014.html
……〉

この微生物的プロセスの利用にしても、あるいは再生可能エネルギーにしても、集中化に鋭く対立します。
「再生可能エネルギーに共通するネックは、エネルギー密度が希薄なことであり、化石燃料、ウラン鉱石は濃縮されて堆積しており、そのエネルギー転換装置――発電プラントや精製・合成装置など――もまた大規模に集約されている。」(要約)「濃縮されているエネルギー資源の採取と集中大型化された機器の利用によって、電力や石油製品などの高効率、低コスト化が可能となったものであって、希薄なエネルギー密度でかつ季節・時間変動性の大きい再生可能エネルギーはこの点で不利である。」(村上信明「補講2 炭素ゼロ雑考」)
これがごく普通の見方です。
 微生物プロセスの利用にしても、集中化・大規模化は、純化もともないます。植物や家畜の純化・集積がさまざまな環境(外敵)に脆弱なのは経験則です。

だからこそ、その「不利」を技術的に克服する道ではなくて、それを利点にするような、社会的結合=社会的関係の変化=革命が切実に迫られていると捉えるべきなのです。

(3) 感染症とウイルス
ハル君、もう一つのテーマは現在の新型(19型)コロナ感染症についてですね。これは、一つは、現代と感染症という問題と、もう一つはウイルスそのものウイルスとは何者か、という二つの観点があると思います。

第一の点からいうと、今度のコロナ感染症を「地球環境破壊が生み出す人獣共通感染症」とする捉え方がありますが、違和感が残ります。例えば、「人間から自然に近づくか、自然から人間に近づくような状態を避ければ、病原体との接触は防げるだろう」というのは、自然と人間を切り離した考え方です。環境破壊が人獣の接近を生みだしたのでしょうか、産業社会以前の方が人獣の距離は近かったではないか、と思ってしまうのです。
感染症はこれまでもあったし、これからも新しい感染症は生まれてくるでしょう、そうしながら生物は生きぬいてきたのです。問題は、その感染症が爆発し、社会がそれに耐えがたくなることであって、それは病気、病原体の問題ではなくて、社会のあり方の問題だということです。かつてのペストも戦争や民族の大移動、都市の形成に関わっていました。現代社会でいえば、〈巨大都市と世界交通網〉の反省が迫られているのだと思います。
 国連環境計画(UNE)と、国際家畜研究所(ILRI)が二〇二〇年七月に発表したレポート「次のパンデミックの防止―人獣共通感染症と伝染の連鎖を断ち切る方法」では、人獣共通感染症に関与する動物として家畜を重視して、現代の「動物性タンパク質の需要の高まり」と「持続不可能な集約畜産」を批判しています。
その批判には同意しますが、人獣の直接的接触ではなくても、ハエや蚊やネズミが媒介する感染症もあります。鳥インフルエンザはオオクロバエによる過密養鶏場への感染が強く疑われています(村山茂樹FB 2020年11月27日)。それらを絶滅するわけにはいきません。

二つ目のウイルスについては、まず、方法論的問題意識を明らかにするために、以前に友人に送ったメールをそのまま引用します。

〈2013/12/21付
 最近考えていることを少し。
  (1)
「人間は最も文字どおりの意味でゾーン・ポリティコン〔ポリス的動物〕である。たんに社交的〔群居的〕な動物であるだけではなく、ただ社会のなかだけで個別化されることのできる動物である。」(『経済学批判序説』)
というのは、我々がしばしば引用する箇所ですが、『諸形態』には「歴史的過程によってはじめて個別化される」という規定があります。
「人間は、歴史的過程によってはじめて個別化されるのである。人間は、本源的には、類存在、種族的、群居動物としてあらわれる――政治的意味における社会的〔ポリス的〕動物としてあらわれるのではないとしても。」(『諸形態』青木文庫、50頁)
社会的なら同時に歴史的というのは、いわれるまでもない当たり前のことのようですが、まさにこれを掴みそこなっているが故に、「アジア的国家」の無理解に陥ったり、『家族・私有財産・国家の起源』を遺物として取り扱うのだと思えてなりません。

  (2)
それにしても「晩期エンゲルス」(『起源』『自然弁証法』あたり)というのは評判が悪いのですね。レーニン・スターリンの愚行・誤りをほとんど一身に背負わされてる感があります。
しかし、『起源』について、ケイメイは87年の日本史についての講演で、
「――僕は青年時代から何度か『資本論』との関連も含めて『家族・私有財産・国家の起源』に目を通すわけだけれども、しかし、何度か挫折したり、ふっとばして読むと、意味がとりきれんというようなことが多かったが、ここ数年も折に触れてそういうことがあった。しかし、日本史の総括を本気でやるというふうにして、そしてもう一歩、読めるなぁと思った。まぁ、結論から言うと、エンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』は、マルクスにとっての『資本論』のようなエンゲルスのライフ・ワークだ、と。エンゲルスの最高の著述なんだというふうに改めて思って、全部文段に番号を打って、これは体系的な叙述をしているということで、見直すようにして来た。」と言っています。
こういう見地は他党派にも学界にも皆無といっていいようです。
……
  (3)
『自然の弁証法』についても、「歴史的過程を排除する抽象的自然科学的唯物論の欠陥は、その唱道者たちが自分の専門の外にでしゃばるときに示す抽象的で観念論的な見解によってもわかるのである。」(『資本論』①D版392頁)という、「歴史的過程を排除する抽象的自然科学的唯物論」批判という意味を含めて読み直す必要があると思っています。――廣松、佐々木力もこの観点を強調していて、さらに両者ともにレーニンの『唯物論と経験批判論』に否定的で、批判の対象となっているボグダーノフに対して、主観・客観の二元論という近代的地平を越えているとして、高評価を与えています。佐々木が廣松の後釜教授になったのにはちゃんと理由があったのですね。もっとも佐々木はレーニン『哲学ノート』については、「ヘーゲルを熟読してからの『哲学ノート』におけるレーニンは、この“プレハーノフ的偏向”に気づいていた節がある。だが、彼は主題的に、そして公にはこの“偏向”を矯正するにはいたらなかった。」と評価してしまう“限界”があるのですが(廣松が『哲学ノート』をどう評価していたかは憶えていない)。

  (4)
「いつの時代でも思想の首尾一貫性ということが不十分な知識を助けてこれを押しすすめなければならなかった」(『自然の弁証法』序論、新メガ版102頁)とエンゲルスは書いていますが、「思想の首尾一貫性」の助けが必要なのは、「不十分な知識」しかなかった段階だけではありません。以前に比べればはるかに多くの知識を得られるようになった現在でも、乱雑に積み重ねられた多くの事実を概念的把握に高めるためには、「思想の首尾一貫性」の助けが必要なのであることを、今日の「アジア的国家論」や「生命の進化」論や宇宙論でも示しているのではないかと思います。
共同体論で言えば、
「共有の存するところでは、それが土地のそれであるにせよ、女子のそれであるにせよ、或いはその他の物のそれであるにせよ、必ずそれは原始的であり、動物界から受継がれたものであります。その後の発展はすべてこの原始的共有の漸次的崩壊にあるのであり、原始的個別所有から第二次的に共有が発展したという例は、いつ、いかなるところにも見出されません。私は、この命題を覆し得ないもの且つ一般的に妥当するものと考えるのであって、たとえあなたが私に対して外見上の例外――しかもそれがいかに適切であろうとも――を挙げ得るとしても、私がそこに認めるものは、この命題に対する反対論拠ではなく、今後解かれるべき一問題であるにすぎないでしょう」(1883年3月2日、エンゲルスのカウツキーへの手紙)
これを根拠のない断言と捉えるか、「思想の首尾一貫性」に導かれた確信と捉えるかに分水嶺があると思います。

  (5)
『新メガ版 自然の弁証法』の購入を決めた動機のもう一つに、宇宙の「熱学死」という問題がありました。たまたまネットで検索していて、《翻訳と解題、コーリマン「いわゆる宇宙の『熱学死』について」》という論文に出会いました。
http://www.histec.me.titech.ac.jp/ronso/ronso_vol14/vol14.pdf
熱力学の第二法則であるエントロピー増大の法則からは宇宙には何れ「熱学死」がもたらされると結論付けられるが、エンゲルスの所論はそれに反している(エネルギー保存の法則を対置して宇宙の永遠を説いている)というエンゲルス批判に対して、それをコーリマン(ミーチン時代も生き延びたソ連の物理学者・数学者、晩年に亡命。晩年に亡命して悔恨の自伝を残しているというのは今回初めて知りましたが)が必死でエンゲルスを擁護しているという論文でした。そのエンゲルスの立論を新訳で読み直したいと思ったのです。

詳しく書くのはここでは略しますが、エンゲルスはここでも正しいと思います。太陽系の滅亡のあとにはまた新たな太陽系の発生があるであろうこと、複数の「太陽系」は既に明らかですが、さらに話を銀河系宇宙(正確には、複数の銀河団を含む宇宙)に拡大したとしても、エンゲルスは一つの宇宙という仮定には立っていないということだと思います。
コーリマンの擁護論は、このことを押さえていない!
ビッグバンの仮説は、ビッグバン以前の状態、あるいはビッグバンの必然性に触れることはありません。したがって、宇宙の死後について、触れることができないのも当然のことなのです。
エントロピー増大の法則は、「閉鎖系では」という仮定つきの理論であることはしばしば忘れられているのです。
エンゲルスは、ドレーパーの「無限の空間のなかでの諸世界の多様性ということから、無限の時間のなかでの諸世界の継起という考えが出てくる」という命題を、「際限のない時間のなかで永遠にくりかえされる諸世界の継起は、際限のない空間のなかにある無数の世界の並存を論理的に補足するものでしかない」というように、無数の世界の並存、すなわち「時間的継起の空間的並存」として、論理的に再構成しています!

  (6)
「社会の中でのみ個別化される」「歴史的過程によって個別化される」ということは、別の観点からすれば、諸主体=複数の主体の同時的生成ということであって、したがって、その論理を一般化すると、一者から多者への移行、すなわち一者が分かれて多者になるのではなくて、多者から一者(個別化された多者)への移行、すなわち多者の同時的生成となるのではないかと思うのです。その観点を自然史に転ずる時、あるものが偶然的に発生し、それが分化・派生していったと見るべきではなくて、ある条件下での必然的過程としての同時発生となるのではないかとなります。
今の自然科学の通説には反しますが、私は以前から、生命の起源が一つ、現生人類の起源が一つという考え方には疑問を持っていました。それに対して、最新遺伝学、DNA学が立ちふさがります(もっともミトコンドリア・イブとY染色体・アダムの仮説を前提にしたとしても、それが一組の夫婦だったというのは大いなる誤解なのですが)。しかしやはり、最近のDNA偏重の生物学・医学の跳梁跋扈に対しては、警鐘を発しなければ鳴らないと感じています。
そこで、最近読んだ本に、
松井孝典『生命はどこから来たのか? アストロバイオロジー入門』文春新書
というのがあって、非常に面白く、示唆的でした。
この書では、後者には直接ふれてはいませんが、前者についての異説の可能性を強く示唆しているように読み取りました。
《遺伝子の垂直伝播と水平移動――遺伝子が種のあいだで、水平に移動するようなことが起きれば、系統樹で表せません。/系統樹で考えれば、すべての始まりに、始原的生物が1ついたとなります。……1つしか考えられない。》(大意)
《遺伝子の水平移動》とは、ウイルス(レトロ・ウイルス!)を媒介したそれですが、それを指摘した上で、「生命の化学進化」(生命の発生)の研究の前提として、生物と無生物の中間として位置づけられているウイルスの化学進化の研究の重要性を「個人の意見として」指摘しているのです。
それはウイルスの相互作用によって、生命への化学進化が起きるという仮説を示唆します。そして、生命の発生以降も、ウイルスは消え去るのではなく並存し続け、生命体とウイルスの相互作用が継続するなかで、生命の進化が進むというわけです。
……〉

要するに、生命の起源とウイルスの起源の関連をどう考えるかでは、ウイルスの先行仮説を支持するということです。当然に、ウイルスは単独では自己複製ができないので、生命に先行することはないという反論が返ってくることは想像できます。それは、生命の起源について考えていない反論にすぎません。代謝も自己複製もない無生物から突然、生命としてのすべての機能が揃った生物が現れるという仮説の方が無理があると思います。多くの中間的存在があったと考える方が自然だと思います。
※ wikipediaによれば、2019年には、共進化仮説やキメラシナリオ仮説といった、ウイルスと生命の発生に関する相互作用のプロセスの仮説が登場しているようです。
そのウイルスや細菌といった存在を内部に抱えながら、植物も動物も、従ってヒトも発展してきたのだと思います。
エンゲルスが、「アメーバふうに高等動物の体内を這いまわっている白血球細胞が発見されたため、動物の(したがってまた人間の)個体性という概念は、さらにいっそう複雑なものになっている。」(『反デューリング論』「序論」MEW20巻S.14)と、「不器用に」書いていたことは、こうしたヒトの個体性の先駆的表現といえるのではないかと思います。
人体自身が、微生物・ウイルス(ヒト微生物叢=ヒトマイクロバイオーム)との共生体なのだというのは比較的新しい見方ですが、もう少数派とは言えないと思います。
免疫、或いは免疫の暴走(サイトカインストーム)はすぐれて自‐他の境界にかかわることとして、身体反応としてのヒトのアイデンティティの問題です。
そして、アレルギー反応が腸内微生物叢に関わっているということからすれば、この微生物叢との共生体としてのヒトという有機的自然の自己回復力として、病気の問題を見ていく視点が必要になっているのでしょう。ヒトにとって、生物の多様性の課題とは単に外部の問題ではなくて、内部の問題でもあるのだと思います。
とすれば、現在の感染症対策も細菌・ウイルスの撲滅ではモグラ叩きで根本的解決にならないどころか、自らが乗っている舟に自ら穴をあける行為なのかもしれません。

決して時代は楽観的ではありません。ゲノム編集の問題点を大きくふくんで、二一世紀は「生命化学・生物学革命」の時代の真っ只中であるのでしょう。歴史観をもった生物学が切実に問われていると思います。
ハーバー・ボッシュ法によるアンモニア合成がナチスの戦争政策を助けたのではないかという疑問に対してボッシュが語ったという「科学と技術の進歩は止められない」という諦観や、原爆開発に不可欠の重要な役割を果たしたノイマンの「科学的に可能だとわかっていることは、やり遂げなければならない。それがどんなに恐ろしいことだとしても」という社会性の放棄を超えることができるのか、深刻な岐路に立っていると思います。

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