反・斎藤幸平論――マルクス三昧(2)

 〔一〕ハル君への手紙 Ⅰ
 〔二〕マルクス・エンゲルス三読 上
 〔二〕マルクス・エンゲルス三読 中
 〔二〕マルクス・エンゲルス三読 下
 〔三〕ハル君への手紙 Ⅱ

 〔二〕マルクス・エンゲルス三読 上

(1) 史的唯物論
史的唯物論をなんらかの公式に祭り上げることではなくて、人間と自然の関係のあり方を変えつつ人間同士のあり方を変えるという社会的生産の発展における弁証法として根本的に掴むこと、そしてそれは、自然的・対象的関係が社会的関係を一方的に規定するというものではなくて、自然的関係と社会的関係(生産力と生産関係/闘争と団結)の相互前提的・相互規定的関係として掴むことである。さらに、社会(人間と人間の社会的関係)と国家の関係は、人間と神の関係がそうであるようにそれ自身が生み出しつつそれに対して外から支配的に〈疎外態〉として立ち現れるのである。

例えばエンゲルスが、「要するに、動物は外部の自然を利用するだけであって、たんに自分がそこに居あわせることで自然のなかに変化を生じさせているのである。人間は自分が起こす変化によって、自然を自分の目的のために利用し、自然を支配する。」(『新メガ版自然の弁証法』116-117頁)と言っている。ここでいう「自分が起こす変化」とは、自分の側に起こす変化であって、外部の自然の変化ではないことは牧野紀之が鋭く指摘していることである(牧野紀之訳「サルの人間化における労働の役割」訳注63)。
そしてこの自分の側の変化とは、たんに身体的変化ではなくて社会的変化、社会的結合の変化をも意味するのである。「人間は、ついに自分自身の社会的結合の主人になり、それによって、同時に自然の主人に、自分自身の主人になる――すなわち、自由になる。」(『空想から科学へ』19巻S.228)
「自然の支配」という言葉尻をとらえて、そこに自然の一方的開発者、征服者としての人間をしか思い描けないのは、思想の欠如であって、生産力の無限の発展とは人と人の社会的結合・協力関係の無限の発展のことなのである。

(2) 物質代謝 1
[牧野紀之の物質代謝論の紹介]
在野のヘーゲル学者として知られる牧野紀之はマルクスの物質代謝の論理に70年代の初頭から注目している(『労働と社会』71年10月)。73年の2月に刊行された『初版資本論第一章』の訳注で、資本論の叙述に即して叙述している方を引用しておこう。

本文「しかし、上着とか亜麻布といった、素材としての富の元から現存したのではない要素(36)[個々の使用価値]が存在するためには、どれもみな、どんな時でも、目的をもって生産する特種な(37)活動、つまり特殊な自然素材を人間の特殊な欲求に同化させる(38)活動によって媒介されなければならなかったのである。したがって労働は、使用価値の形成者(39)、有用労働としては、人間の生存にとって、社会形式の如何にかかわりのない[絶対的な]条件であり、人間と自然との間の物質代謝(40)を媒介し、かくして人間の生命[生活]を媒介するための、永遠の自然必然性であるのである。」(『初版資本論第一章』31、33頁)

訳注「(38) 同化とは異化と対概念であり、物質代謝と関係している。ここで同化といったのは、素材(つまり労働対象)を人間の欲求に同化させて使用価値(つまり生産物【)】にすることであって、その使用価値を人間が同化することではない。あとでもう1度、注(40)でふれるので、この点をしっかり押えておいてほしい。後に出てくる物質代謝への伏線の意もあるから、ここを「適合」と訳すのは拙い。

(40) この物質代謝を主語の労働と同格にとって理解している(訳している、ではない)人がいるが、誤解である。①この物質代謝と同格になるのは「人間の生命」であり、人間が衣食住を同化し異化して生きていくことを指しており、それは生物としての人間の機能である。②これを生物的物質代謝と呼ぶとすると、労働は生物的物質代謝を媒介して可能にするのであって、生物的物質代謝そのものではない。③労働過程自身も、労働対象が必要なものを同化し、いらないものを異化して、生産物(使用価値【)】になる過程と見れば、1つの物質代謝と呼べる。
だからマルクスは注(38)をつけた個所で、「労働は素材を人間の欲求に同化させる」と言ったのである。④しかし、ここの物質代謝はあくまでも労働のことではなく、生物的物質代謝のことである。――以上4点を混同しないように。なお、これらの点は労働過程論の文(旧ディーツ版『資本論』185頁【)】でも同じである。さらに、マルクスには、もう1つの物質代謝(社会的物質代謝)があるが、これら3つの物質代謝(生物的、労働的、社会的物質代謝)の立体的関係については、拙著『労働と社会』の130-138頁に述べておいた。」(前掲書174、176頁)

全集版(第4版)岡崎次郎訳では該当箇所はこう訳されている。「しかし、上着やリンネルなど、すべて天然には存在しない素材的富の要素の存在は、つねに、特殊な自然素材を特殊な人間欲望に適合させる特殊な合目的的生産活動によって媒介されなければならなかった。それゆえ、労働は、使用価値の形成者としては、有用労働としては、人間の、すべての社会形態から独立した存在条件であり、人間と自然とのあいだの物質代謝を、したがって人間の生活を媒介するための、永遠の自然必然性である。」(MEW23巻S.57)

[留意点]
この牧野の三つの物質代謝の整理は、論理的な整理として参考になるが、その上で牧野が、本文で《人間の生命[生活]》と訳し、注釈で生物的物質代謝と規定し、それを「人間が衣食住を同化し異化して生きていく」と説明している点に注意する必要がある。それは必ずしも「生理的」に限定していない。人間以外の動物も、衣や住について本能的水準での物質代謝を営むことはあるとはいえ、本格的には労働とともに始まると言っていい。その意味では、ここの物質代謝が生物的物質代謝であると規定しても、それは労働を条件として成立している人間生活であるのである。
労働過程論でも「労働は、まず第一に人間と自然とのあいだの一過程である。この過程で人間は自分と自然との物質代謝を自分自身の行為によって媒介し、規制し、制御するのである。」(23巻「労働過程」S.192)と、牧野が指摘しているように「媒介」であることを強調しているとともに、「大工業と農業」においても「人間と土地とのあいだの物質代謝」について、「人間が食料や衣料の形で消費する土壌成分が土地に帰ること」(MEW23巻S.528)としていて「食料や衣料」が挙げられていることからして、生物的(生理的)に限定したものと解すべきではないように思う。
 なお、さらにマルクスにはもう一つの「物質代謝」概念があることは、斎藤も吉田文和(『環境と技術の経済学人間と自然の物質代謝の理論』)に従って、『要綱』から引いて指摘している。
「実際に使用されなければ、使用価値としてはその価値を失い、自然の単純な物質代謝によって解体されるだろうし、また実際に使用されればされたで、それこそほんとうに消失するであろう」(MEGA II/1: 195)。
これは、『資本論』では、
「労働過程で役だっていない機械は無用である。そのうえに、それは自然的〔natüralichen〕物質代謝の破壊力に侵される。鉄は錆び、木は腐る。織られも編まれもしない糸は、だめになった綿である。」(MEW23巻S.198)
と出てくる。ここでは「自然的物質代謝」と呼んでいる「物理的」「化学的」あるいは「微生物的」過程のことである※。
 ※同じような用法は、1862年1月の「鉄道組織にかんする統計的考察」にも見られる。「それはつねに物質代謝をまぬかれない。鉄は摩損、酸化、新製品によって、たえずだめになり、つねに新たな補填を必要とする。」(MEW15巻S.448)とある。ここで、物理的・化学的摩損と並んで取り上げられている、社会的陳腐化が前例の「使用されなかった使用価値」「だめになった綿」に当る例なのであろう。

ところで、マルクス自身が『資本論』での物質代謝論を簡単に振り返った文章が「アードルフ・ヴァーグナー著『経済学教科書』への傍注」(以下、「ヴァーグナー傍注」)※(1879-80)のなかにある。
※ この文章は、いわゆる「抜粋ノート」の中にある文章であるがWerke(現行全集)の中に収められている。
「そこにある[一経営の]「財総量の (現物的〔natural〕)構成部分の変換」[これは、ヴァーグナーでは別名「財変換」〔Guterwecbsel〕とよばれていて、シェフレの言う「社会的物質代謝」〔sozialer Stoffwechsel〕と同じものだと――すくなくともその一つの場合だと、説明されている。しかし、私はこの語を人間と自然とのあいだの物質代謝として「自然的」〔natural〕生産過程の場合にも用いた*]は、私から借りたものであり、私の著書では物質代謝はまずW―G―Wの分析のところに現われ**、またあとでは、形態変換の中断が物質代謝の中断としても***表示されている。
* 本全集、第一三巻、二三―二四(原)ページを参照。
**本全集、第二三巻、一一九(原)ページを参照。
*** 前掲書、一三四(原)ページを参照。」(MEW19巻S.377)
 〔当然にも、この参照個所の指摘は、編集者によるものである。〕

 ここで注目すべきは、「人間と自然とのあいだの物質代謝として「自然的」〔natural〕生産過程の場合にも用いた」として、「人間と自然との間の物質代謝」を「自然的生産過程」の場合と表現していることである。――つまり、牧野の規定でいえば、「生物的物質代謝」というよりも「労働的物質代謝」に近いのではないか。
 さらに、物質代謝の概念について、社会的物質代謝の概念が先であって、それを自然的生産過程にも適用したと、マルクス自身が振り返っているように覗えるのが、第二の注目点である。

さらに、『ド・イデ』の「自生的生産用具と文明によって作り出された生産用具との区別」について述べたところにも注意を促しておこう。
「第一の場合は交換(Austausch)は主として人間と自然とのあいだの交換(Austausch)、一方側の労働が他方側の生産物とと引換えに得られるような交換(Austausch)であるし、第二の場合はそれはおもに人間たち自身の交換(Austausch)である。第一の場合には並の人知で足り、身体活動と精神活動はまだ全然わかれていないし、第二の場合にはすでに精神労働と身体労働の分割が実際に遂行されているはずである。」(MEW3巻S.65)
ここでは、交換(Austausch)という語を使っていて、Wecbsel(交換、変換)ではないが、のちの物質代謝に発展する発想がすでに秘められている。

(3) 物質代謝 2
斎藤は、マルクスの「化学や地質学や生理学や……それらの農業への応用」についての研究について、当初は「楽観的」「楽観主義」だったとと何度も述べ、それを『資本論』の時期の「掠奪農業」批判と対照させる。
例えば、次のように。
「一八五〇年代のマルクスには自然科学と技術学の適用による農業の収穫増大についてのかなり楽観的な見解が見受けられるが、一八六五年には楽観主義が姿を消し、むしろ近代的農業経営そのものが、「人間と自然の物質代謝の撮乱」を引き起こす「掠奪農業」として鋭く批判されるようになるのである。」(159頁)
「『ロンドン・ノート』(一八五〇~五三年)の『農芸化学』抜粋を検討することで判明するのは、工場で製造された化学肥料の使用による土壌管理によって農業の生産性を無制限に増大させることができるというリービッヒの楽観的見解に対する当時のマルクスの共鳴なのである。」(162頁)
斎藤はしかし、工学と機械の発達のマルクスの研究のなかにも、機械の発達への楽観論から機械的大工業批判への転換を見出すのであろうか? マルクス・エンゲルスにおいて、科学・技術の発展は疎外と対立のなかですすむというのは原理的立脚点であり、「近ごろは……おもに技術学やその歴史や農学を勉強している」(一八五一年一〇月)
というのもその大前提にたってのものであることは明らかである。そうでなければ、他人の研究を読むたびに右往左往するだけの人になってしまう。

さらに斎藤の強引な解釈の例を挙げれば、
「それゆえ、草稿のなかで、「均衡の攪乱」によって生じる土地疲弊の可能性に言及している箇所があったとしても(MEGA II/3: 1445)、全体的な議論の調子は依然として楽観的な印象を与えるのだ。」(184頁)
という。ここでは、引用を提示していないが、同書274頁に(MEGA II/3: 1145)からの引用として、
「将来の先取り――現実の先取りは、一般に富の生産においては、ただ労働者と土地とに関してのみ行われる。この両者にあっては、早すぎる過労や消耗によって、支出と収入との均衡の攪乱によって、将来が現実に先取りされ、そして荒廃させられることが可能である。それはどちらの場合にも資本主義的生産において行われる。」
が、掲げられている。「均衡の攪乱によって……」という叙述からして、おそらくこの箇所のことで、どちらかのページ付け――1145または1445――が誤植なのであろう。

そしてこれはMEWで『剰余価値学説史 第3巻』(26.3巻S.303-304)に該当する箇所であると思われる。
現行の全集版訳では、こうなっている。
「将来の先取り――現実の先取り――は、一般に富の生産においては、ただ労働者と土地とに関してのみ行なわれる。この両者にあっては、早すぎる過労や消耗によって、支出と収入との均衡の撹乱によって、将来が現実に先取りされて荒廃させられることが可能である。それはどちらの場合にも資本主義的生産において行なわれる。たとえば国債の場合のいわゆる先取りについて言えば、レイヴンストンはそれについて次のように正しく述べている。
 ……
 労働者と土地との場合にはそうではない。この場合に消費されるものは力〔……〕として存在するのであって、無理強いされた消費の仕方によってこの力の寿命が短縮されるのである。」
ここで示されているのは、直接的には労働時間の延長や労働の強度の増大について述べてきたことに続いて、いわば労働者の過労と同列に土地の衰弱について述べているのであって、『資本論』でいうところの「資本主義的生産は、ただ、同時にいっさいの富の源泉を、土地をも労働者をも破壊することによってのみ、社会的生産過程の技術と結合とを発展させるのである。」である。ここのどこが、「(農業の近代化)への楽観的な印象を与える」というのであろうか? そこにあるのは斎藤の科学技術批判の未熟のみである。

『資本論』の「労働日」の章でも、労働力の濫費について述べている箇所で、
「資本が労働力の寿命の短縮によってこの目標に到達するのは、ちょうど、貪欲な農業者が土地の豊度の略奪によって収穫の増大に成功するようなものである。」(MEW23巻「労働日」S.281)
と、土地の豊度の掠奪について触れるのを忘れない。

(4) 物質代謝 3
 ――「亀裂」論
斎藤は、「マルクスは、都市人口の増大だけでなく、国際貿易の発達による物質代謝の亀裂を資本の内在的傾向性として把握している。」(198頁)としてMEGAの『資本論草稿』を引用している。
「こうして大土地所有は、社会的な物質代謝と自然的な、土地の自然諸法則に規定された物質代謝の連関のなかに修復不可能な亀裂を生じさせる諸条件を生み出すのであり、その結果、地力が浪費され、この浪費は商業を通じて自国の国境を越えて遠くまで広められる(リービッヒ)。(MEGA II/4.2: 752 f.) 」
この草稿部分はエンゲルスによって、『資本論第3部』に取り入れられている。その際に、
「エンゲルスは前半部分を次のように変更しており、この変更後の文章が一般に引用されるようになっている。「こうして大土地所有は、社会的な、生命の自然諸法則に規定された物質代謝の連関のなかに修復不可能な亀裂を生じさせる諸条件を生み出す」(MEW 25: 821)。変更後の文章では、「自然的な物質代謝」が削除され、「土地」が「生命」に変更されたことで、「社会的な物質代謝」と「自然的な物質代謝」の対比と連関が不明瞭になっている。」
というのが、斎藤のエンゲルス批判である。

ここは、小土地所有と大土地所有を対比して述べている箇所であるが、主語が大土地所有に代わっている箇所の始めまで広げて引用しよう。
「《他方、大きな土地所有は、農業人口をますます低下して行く最小限度まで減らし、これにたいして、大都市に密集する工業人口を絶えず大きくして行く。》こうして大きな土地所有によって生みだされる諸条件は、生命の自然法則によって命ぜられた社会的な物質代謝の関連のうちに回復できない裂け目を生じさせるのであって、そのために地力は乱費され、またこの乱費は商業をつうじて自国の境界を越えてはるかに遠く運びだされるのである。(リービヒ。)」(MEW25巻S.821 岡崎次郎訳)
この訳では「生命の自然法則によって命ぜられた社会的な物質代謝の関連」の意味が不分明なので、もう一つ、長谷部文雄訳も参照しよう。
「他方、大土地所有は、農業人口をたえず減少する最低限度に縮小させ、これに対置するに、たえず増大する・大都市に密集した・工業人口をもってする。かようにして大土地所有は社会的な・および生活の自然法則によって指図される質料変換の関連にいやすべからざる裂目を惹起する諸条件――その結果として地力が浪費されるのであって、この浪費は商業を通して自国の国境を遠く越えて運びだされ――を生みだす。(リービヒ。)」(青木書店S.865)
長谷部訳では、「社会的な」と「生活の自然法則によって指図される」が並列で「質料変換」にかかっていることが明瞭に示されていて、「連関」とは、この二つの「質料変換(物質代謝)」の連関になる。※
※ なお付言すれば、長谷部訳が一般的であった時期の『資本論』の読者には普通であったが、Stoffwechsel は一貫して、直訳調=哲学調の「質料変換」と訳されている。武田隆夫他訳の岩波文庫版の『経済学批判』では、「素材転換」と訳されている(『経済学批判』23-24、69-70頁)――もっとも『経済学批判』の場合はこの語は「形態変換」の対語として使われているので、「変換」と使いたい気持ちはわかるが「素材」よりも「質料」の方が「形態(形式)」との対比は明瞭だろう。

ドイツ語の原文で検討したい人のために、原文を対照して掲げておく。異なる箇所を[MEGA II/4.2 / MEW25巻]として表示している。
[so producirt/Auf der anderen Seite reduziert] das grosse Grundeigenthum(752頁)[, indem es/] die agricole Bevölkerung auf ein beständig sinkendes Minimum [reducirt/] und[/ setzt] ihr eine beständig wachsende, in grossen Städten [agglomerirte/Zusammengedrängte] Industriebevölkerung [entgegensetzt,/; es erzeugt dadurch] Bedingungen, die einen unheilbaren Riß hervorbringen in dem Zusammenhang des gesellschaftlichen und [natürlichen,/] durch die Naturgesetze des [Bodens,/Lebens] vorgeschriebnen Stoffwechsels, [in Folge/infolge] wovon die Bodenkraft [verwüstet und/verschleudert und diese Verschleuderung] durch den Handel [diese Verwüstung/] weit über die Grenzen des eignen Land[/e]s hinaus[ /]getragen wird. 1)(MEGA II/4.2: 752 f. / MEW25巻S.821)

斎藤は、「自然的な、土地の自然諸法則 Naturgesetze des Bodens」(土地より土壌がいいか)が、岡崎/長谷部が、「生命/生活の自然法則 Naturgesetze des Lebens」と訳している箇所への変更をもって、社会的物質代謝と自然的物質代謝の対比が不鮮明だという。おそらくは、エンゲルスは、第1巻の「大工業と農業」の叙述に合わせる形で土地(土壌)を生命(生活)に変更した結果、「自然的な」の用語は不要と判断したのではないか、と思う。

問題にしたいのは、「亀裂を生じさせる諸条件」である。この諸条件とは、明らかに斎藤が引用を省略した箇所、とりわけ「大都市に密集する工業人口を絶えず大きくして行く」であることは明らかであって、そこを引用から省略しては意味が半減する。国際貿易は、そのうえでの、国境を越えた拡大である。
斎藤のこの「都市工業人口の集中」という媒介項の軽視が、物質代謝の亀裂から無媒介に「コモン」を持ち出すことにつながっているのではないか。

ところで、この小土地所有と大土地所有を対比して叙述する前に、「第47章 資本主義的地代の生成」の箇所では、
「〔小土地所有・大土地所有〕どちらの形態でも、土地を、共同的永久的所有として、入れ替わって行く人間世代の連鎖の手放すことのできない存在・再生産条件として、自覚的合理的に取り扱うことに代わって、地力の搾取や乱費が現われるのである」(25巻S.820)
として、「どちらの形態でも」土地の私的所有とともに、「地力の搾取や乱費が現われる」としていて、根本的な可能性を土地の私的所有に見出したうえで、その大土地所有への展開の中で、大都市の発生と集中として物質代謝の「攪乱」「亀裂」を論じているのである。

(5) 物質代謝 4
前項で見た、斎藤の限界は、肝腎の「大工業と農業」の読み込みに関わってくる。つまり物質代謝の攪乱の「再建」の基礎をどう掴むかである。
「しかし、同時にまた、この生産様式は、一つの新しい、より高い総合のための、すなわち農業と工業との対立的につくりあげられた姿を基礎として両者を結合するための、物質的諸前提をもつくりだす。資本主義的生産はそれによって大中心地に集積される都市人口がますます優勢になるにつれて、一方では社会の歴史的動力を集積するが、他方では人間と土地とのあいだの物質代謝を撹乱する。すなわち、人間が食料や衣料の形で消費する土壌成分が土地に帰ることを、つまり土地の豊穣性の持続の永久的自然条件を、撹乱する。したがってまた同時に、それは都市労働者の肉体的健康をも農村労働者の精神生活をも破壊する。しかし、同時にそれは、かの物質代謝の単に自然発生的に生じた状態を破壊することによって、再びそれを、社会的生産の規制的法則として、また人間の十分な発展に適合する形態で、体系的に確立することを強制する。農業でも、製造工業の場合と同様に、生産過程の資本主義的変革は同時に生産者たちの殉難史として現われ、労働手段は労働者の抑圧手段、搾取手段、貧困化手段として現われ、労働過程の社会的な結合は労働者の個人的な活気や自由や独立の組織的圧迫として現われる。農村労働者が比較的広い土地の上に分散しているということは同時に彼らの抵抗力を弱くするが、他方、集中は都市労働者の抵抗力を強くする。都市工業の場合と同様に、現代の農業では労働の生産力の上昇と流動化の増進とは、労働力そのものの荒廃と病弱化とによってあがなわれる。そして、資本主義的農業のどんな進歩も、ただ労働者から略奪するための技術の進歩であるだけではなく、同時に土地から略奪するための技術の進歩でもあり、一定期間の土地の豊度を高めるためのどんな進歩も、同時にこの豊度の不断の源泉を破壊することの進歩である。……それゆえ、資本主義的生産は、ただ、同時にいっさいの富の源泉を、土地をも労働者をも破壊することにょってのみ、社会的生産過程の技術と結合とを発展させるのである。」(「大工業と農業」MEW23巻S.528-529)
マルクスは注意深く、「土地の豊穣性の持続条件の撹乱」「労働力の荒廃と病弱化」を描くと同時に、「農業と工業との対立的につくりあげられた姿を基礎として両者を結合するための、物質的諸前提をもつくりだす。」「大中心地に集積される都市人口がますます優勢になるにつれて、一方では社会の歴史的動力を集積する」「集中は都市労働者の抵抗力を強くする。」と、止揚の条件の台頭を述べているのである。それは、『ド・イデ』で肉体労働と精神労働の分離として提示し、ここで大工業の農業の対立として叙述している分業の発展とその止揚の問題である。

斎藤も、マルクスが「抵抗の契機として、より能動的な要因を強調している」「労働者たちの主体的な闘争を呼び起こし」(309頁)と述べてはいる。しかし、資本主義的分業の発達の分析への無関心が、平板な闘争の指摘になり、外部からの「人間と自然の物質代謝の意識的な制御」の御託宣に終わってしまうことになっているのである。

この斎藤の同じ傾向は『人新世』の中にも現れる。
第4章「人新世」のマルクスの「地球をコモンとして管理する」の節で、突然、
「この否定の否定は、生産者の私的所有を再建することはせず、資本主義時代の成果を基礎とする個人的所有をつくりだす。すなわち、協業と、地球と労働によって生産された生産手段をコモンとして占有することを基礎とする個人的所有をつくりだすのである。」(『人新世』143頁)
という『資本論』の有名な一説を引用する。
土地〔der Erde〕を地球、共同占有〔Gemeinbesitzes〕をコモンとして占有と訳すのは愛嬌としても、マルクスがその前段で展開している「しかしまた、絶えず膨張しながら資本主義的生産過程そのものの機構によって訓練され結合され組織される労働者階級の反抗もまた増大してゆく」という核心は省略されるのである。

 マルクス・エンゲルスには確かに「楽観主義」はあった。しかしそれは、斎藤が言うような科学技術への楽観論ではなくて、プロレタリアートの団結に対する楽観主義である。

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