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ツイフェミはなんで男のためには怒らないの?について

Twitterで、女性に対する暴力、殺傷、痴漢といったニュースツイートに対して、大量に連なるリプライを見かけます。様々な感想や意見が限られた文字数で述べられています。

その中で、「これは許されることではない」というリプライに対して、「なんで男のためには怒らないの?」というリプライがついているのを何度か目にしたことがあります。

これが自分には「なぜそういう反応になるんだろう?」と不思議だったので、考えてみることにします。

なお、この記事では一人称を「自分」で統一しようと思っています。なぜかというと、こういった「フェミの話」をするときに、その話者の性別によって受け取り手の反応が大きく異なるのを見てきたからです。おそらくそこには「この性別の場合はこういった事情が本当にはわかっていないだろう」「この性別ならばこういう思考をしているに違いない」といった思い込みや決めつけがあるようですが、それをぼかすためにも「自分」とします。

まず、「ツイフェミ」について考えてみたいです。
Wikipediaによると、ツイフェミとは、「Twitter上でフェミニズム的な言動を展開する人々またはその現象を指す俗語・インターネットスラングである。「ツイフェミ」はフェミニストではなく、「ミサンドリスト(男性嫌悪者)」であるとの意見、ミサンドリストと呼称する向きもある」とのことです。

確かに、ツイフェミという言葉は、フェミニストを馬鹿にする雰囲気の中で蔑称的なニュアンスも感じます。

フェミニズムを勉強したことがない自分は、Twitterでたまに見かける「多分フェミニズムっぽい話」の中で見かけるツイートの情報で「フェミニストのイメージ」を構築しています。

そのイメージを語ると、フェミニストも色々な人がいて、丁寧な文章で語る方もいれば、『ツイフェミ』と言われがちな、男性嫌悪的な印象が強い攻撃的な文章の方もいるのだなぁという印象です。フェミニストの中でも、女性のどの要素や話題に特に興味関心があるか、なども細分化していくのだろうか、と予想していますが、「男性はこうだ」「女性はこうだ」と言えないように、「フェミニストはこうだ」とも言えないのだろう、と感じています。

ところで、「ツイフェミ」のステレオタイプ的なイメージとして「常にめちゃくちゃ怒っている」というイメージがあります。
このイメージは割と自分だけのものではなく、そこそこ持たれているものな気がします。というのも、通常文字だけだと「怒っているかどうか」というのは非常に判断しずらいはずなのに、「これは許されることではない」という一見冷静なような一文にも「なんで男のためには怒らないの?」という「怒る」前提のコメントはつくことがあるからです。

ここで1つ疑問が浮かびます。「なぜめちゃくちゃ怒っている」イメージがあるのだろうか。怒るという言葉には、「我慢できない、勢いが盛んである」といった要素が含まれています。つまり、非常にエネルギーを消費しないといけない状態です。
マイノリティは常に、マジョリティに対し、何かを主張したり抗議するとき、多くの説明をしなければいけない、声に出して、文字に起こして、視界に登場しないといけない、というエネルギーの消費が求められていると感じます。そうしないと、いないことにされてしまいがちなのがマイノリティ。一方で、マジョリティはそれを「なぜそんなに騒ぐのか、視界に入ろうとするのか」とうざったく感じることがあると思います。LGBTQのパレードに対して、「存在を否定していない。なのになぜそんなに目立とうとするのか」といった旨のコメントを見かけたことがあります。
パレードはかなり特殊なパターンと思いますが、こういったエネルギー消費の非対称性というものが「ツイフェミは(に限らず、マイノリティ属性で声を上げ続けている人は)なぞにめちゃくちゃ怒っている」というイメージをマジョリティ側に持たせるのではないでしょうか。

というわけで、ツイフェミは別にめちゃくちゃいつも怒っているわけではなさそうです。言い換えると、マイノリティ側はめちゃくちゃいつもエネルギーを大量消費しているのかもしれません。

では次に、「なんで男のために怒らない」のでしょうか。
これは単純に、人の持つ心身エネルギーやかけられるコストには限界があるからだと思っています。
世の中には、本当に様々な問題が溢れかえっており、すべての問題に等しく興味関心を持ち、等しく心血を注ぎ、等しくその問題に悩み、苦しみ、悲痛な事件が起きれば心を痛める、ということは基本的に難しいでしょう。

女性の人権のために立ち上がる人は、男性の人権のために「同じだけの熱量」で立ち上がらなければ、その主張は矛盾するのでしょうか。特定の属性の人権のために別の属性の人権をないがしろにしていることに自動的になるのでしょうか。動物愛護に熱心な人が、熱帯雨林の保護にも熱心に取り組まなければ、猫ちゃんが大好きで保護猫の支援に熱心な人が、保護犬の支援にも同じだけコストをかけなければ、いけないのでしょうか。

また、「なんで男性のためには怒らないの?」というコメントがついている元々のニュースが、女性が被害にあっている事件の場合は、さらに「今はその話をしていない」だけな気がします。

男性の人権の話もされるべきだと思います。男性のほうが、第三者に対して精神的な弱さを見せられなかったり、見せるべきでない、とする社会的な風潮や仕組みは問題だと思います。フェミニストの中には、そういった問題にも深く頭を悩ませている人も沢山いると思います。ただ、今は違う事件の話をしているので。それはまた、別のところで、熱心に話しましょう。ただそれだけだと思うのです。

Twitterだけでなく、様々なSNSにおいて、人権の話をする難易度は非常に高いと感じます。結論を求めて議論することは無意味に感じるほどです。
字数制限や、何がコメントの発端か追いづらいこと、話者の背景が分からないこと、誰に対しての発信か不明瞭なこと、皮肉や逆説的な物言いが正しく伝わりずらいこと、いろいろな悪意が存在すること、ダイバーシティやインクルージョンといった言葉が一般的になってきたことによる悪い影響(ダイバーシティやインクルージョンが「よいこと」としてパッケージ的に使われ、もっと具体的に検討すべきことが放置されてしまうことがあるように感じる)などが、難易度を上げていると考えます。

この、SNS自体が持つコミュニケーションの難易度の高さは乗り越えられない感じます。ですが、このSNS起因の「話が通じない」コミュニケーションを「相手の(持つ属性の)せい」「相手が頭がおかしいせい」「(ある属性を持つ)相手が馬鹿で知識も教養もないせい」とするのは、やめる必要がありそうです。(もちろん中には、シンプルに「相手のせい」ということもあると思います。突然暴言だけ吐くとか、前後の文脈を見ようともしないとか、見れない、とか。でもこれはその相手が持つ属性には関係なく、単純に一個人の文字コミュニケーションのスキルの問題です)

以上、Twitterで見かけたコメントに対するもろもろの思考をまとめてみました。

心穏やかに生きるためには、SNS離れは非常に効果がありそうです。誰だって何かには怒って生きているのでしょうか。すべてにおいてマジョリティに生きる人は非常に温厚なのでしょうか。穏やかといえばサンリオのマロンクリームが全体的に穏やかでいいなぁと思っています。






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