"落語家"笑福亭鶴瓶師匠のドキュメンタリー~映画『バケモン』~

映画『バケモン』(山根真吾監督、2021年。以下、本作)は、普段テレビで笑福亭鶴瓶師匠を見て無邪気に笑っている人に観てもらいたい。
その上でさらに、コロナ禍における映画館の窮状に心を痛めている人には是非観てもらいたい。
何故なら、前者は「テレビではほぼ観られない”落語家”笑福亭鶴瓶師匠を観られる」から。そして後者は「本作は映画館に無償で寄付され、チケット収入がそのまま映画館の収入になる」からである。
そして、観ればやっぱり笑え、元気だけじゃなく勇気すらもらって映画館を後にすることができる。


私が本作の事を知ったのは、鶴瓶師匠が毎年恒例で開催しているスタンディング・トークショー(決して「落語」ではない)である『TSURUBE BANASHI 2021』(2021年4月。@東京・世田谷パブリックシアター)である。
「上映する予定もないのに、17年間も俺を撮り続けている男がいる」と話し出した鶴瓶師匠は、山根監督からの撮影許可の求めに快諾しつつも、1つの条件を出したという。「俺が死ぬまでは出すな」。
山根監督がその条件を呑んで始めた撮影は17年間に及び、その素材は1600時間を超えるという(現在も継続中だから、これはもっと伸びるはず)。

しかし、このコロナ禍での映画館の窮状に心を痛めた鶴瓶師匠は、「死ぬまで出すな」と言った素材を使えないかと考えた。そして、『所属事務所が製作費を持ち、各映画館に作品をそっくり寄付する。売り上げの全額が映画館のものになるという全く新しい興行形態』(朝日新聞デジタル 2021年6月24日配信記事)を思いつき、実現させた。

しかし、「死ぬまで出すな」という条件を全面撤回したわけではない。
そこで山根監督は、”落語家”笑福亭鶴瓶が噺す、「鶴瓶のらくだ」に焦点を絞った。


本作の軸は大きく分けて2つ。
一つは、鶴瓶の師匠であり「上方落語界の四天王」の一人である六代目笑福亭松鶴の十八番である、名作落語「らくだ」にまつわる話。
山根監督は、古い文献を当たり、縁者や研究者に直接会って話を聞き、「らくだ」そのものを掘り下げていく。

もう一つは、その師匠の十八番であり現在の松鶴一門の代名詞でもある「らくだ」を、50歳になって落語を始めた鶴瓶師匠が噺すという挑戦の物語である。

松鶴師匠に弟子入りしたものの、落語の稽古をつけてもらえず、そのままアッという間に人気タレントになった鶴瓶師匠は、師匠もとっくに亡くなってしまった50歳になって「本気で」落語家を目指す決意をした。

周囲から「松鶴に弟子入りしながら人気タレントになった鶴瓶が、落語家やる」と軽く見られ、自身もそれを自覚している中での決断だったと思う。
だから、そう見られないように、必死で真剣に落語と向き合った。

私も50歳になったが、気力も体力も若い頃のような勢いを失い、「良い事がそんなにあるわけではないが、かと言って途方に暮れて嘆くほどに悪い事もない」日常の中で、「何とか現状をキープし、如何に逃げ切るか」しか考えなくなっている。ネットでは「来たるべき定年と老後に備え、50代から新しいことを始めておくべき」などと叱咤する記事も多く見受けられるが、先述のように切迫感がない状況では、何かを始める気にはなれない。

鶴瓶師匠だって、「逃げ切り」といえば言葉は悪いが、何もしなくても、いや下半身関係で前科のある(これも語弊のある表現だが)師匠の場合は何もしない方が、きっと安泰だろう、と誰もが思うに違いない。

しかし、鶴瓶師匠は50歳にして、自らを変えようとした。

本作はパンフレットがない代わりに、映画監督の西川美和氏が寄稿した「映画バケモンをご鑑賞頂いた皆様へ」と題されたリーフレットが無料で配布される。

映画『ディア・ドクター』の主役に招いたのは、2008年の夏だった。(略)
当時鶴瓶師匠は56歳ですでに東京進出してからも長く、全国に知らない人はいなかった。(略)
私が脚本に書いた主人公は、40代半ばの偽医者の設定だった。(略)今その村を離れて遁走すれば、もう一度人生の巻き返しが効くかも知れない、とたくらむ余地のまだ残る年頃-すでに笑福亭鶴瓶は、設定よりひとまわりも年かさだ。その年齢になって、人が生き方を変えたりできるものだろうか?
その後、落語を観た。「鶴瓶のらくだ」を観た。そして私は主役を鶴瓶師匠に演じてもらうことには何の無理もないのだと納得した。この人は、50から落語をやり直したという。映画の主演も57歳にして初めてだと言うが、何のためらいも見えなかった。

2020年のコロナ禍で巡る「鶴瓶のらくだ」ツアー。
コロナという目に見えない感染症を前に、観客も相当な覚悟で劇場に足を運んでいる。
その観客を前に、鬼気迫る迫力で「らくだ」を噺す鶴瓶師匠。
その声を聞きながら、長年鶴瓶師匠のマネージャーを務め、現在は鶴瓶師匠の(ほぼ)個人事務所社長であり、本作の仕掛け人の一人でもある千佐隆智氏が、こう口にする。

『年々ストイックになっていく。昔は、「手ぇ抜いてるな」っていうのもあったけど、今はそれがない』

本作を観ていると、鶴瓶師匠が50歳から始めた落語にどれだけ真剣に真摯に向き合っているか、その気迫がビシビシ伝わってくる。
憑かれたように「らくだ」を噺すその姿は、普段テレビで見慣れた人懐っこい鶴瓶師匠とは別人のようだ。

人が変わるのに年齢や条件の制限はない。
そのことを、映画を通じて鶴瓶師匠が教えてくれる。
冒頭に書いたとおり「元気だけじゃなく勇気すらもらって映画館を後にすることができる」。

だから本当は、冒頭に書いた人たちだけでなく、コロナや年齢だけでなく、自身の環境や境遇などで将来を不安に思っている人たち、みんなに観てもらいたい。
笑って観ているうちに、自然に元気と勇気が湧いてくるはずだ。

(2021年7月5日。@ヒューマントラストシネマ渋谷)

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