「語り継ぐ」とは-映画『二重のまち/交代地のうたを編む』

この10年、3月が来る度に、「忘れない」「語り継ぐ」という言葉を耳にする。シンプルで説得力のある言葉に、つい感覚上でわかったつもりにさせられてしまい、それ以上の思考を停止してしまっていないだろうか。

改めて考える。
「忘れない」「語り継ぐ」とは、どういうことなのか?

たとえば、体験者が語ることを動画や音声に記録し、どこかに保存しておいて、定期的にそれらを再生する。それも一つの方法かもしれない。
しかし、それでは「語られなかった人」や「語ることができなかった人」のことは記録されず、語り継げないのではないか?
それがたとえば「死者」だとして、以前の拙稿でも書いたが、語ることができる「生者」が抱いている(かもしれない)「死者に生かされている」という思いは、記録に残るのか?語り継いでいけるのか?

「忘れない」「語り継ぐ」ということに対して考えるための一つの手がかりになりそうな映画を観た。

2011年の東日本大震災の後、ボランティアとして東北を訪れ、そのまま住み着いてしまった2人の若い女性がいる。
映像作家の小森はるか氏と、画家・作家の瀬尾夏美氏。
2人は東北で生活しながら、個人や共同で創作活動を行っている。
その2人の共同プロジェクトで制作された映画が『二重のまち/交代地のうたを編む』(小森はるか監督、2021年)である。


この映画を説明するのは、とても難しい。

この映画は、一応、瀬尾と小森が開いたワークショップの記録、ということになるだろう。「一応」と書いた意味は後述するが、2人が開いたワークショップは瀬尾が編んだ『二重のまち』という物語を朗読するというものだ。

まずは、『二重のまち』という物語の内容から。
津波対策として土地をかさ上げしてできた「今のまち」のしたに、かさ上げ前(震災前)の「まち」がある、という設定で、春・夏・秋・冬という季節ごとに別々の物語が編まれている。舞台は2031年。
各物語の設定や登場人物は、それまで瀬尾や小森が現地で出会ってきた人たちがモデルになっている。

そして、ワークショップ。
参加者は4人。男性2人、女性2人。最年少は高校一年生の女の子。
それぞれ『二重のまち』の割り当てられた季節の物語を朗読するのだが、ただ朗読するだけではない。
ワークショップの15日間、参加者は各々割り当てられた物語のモデルとなった場所を歩き、モデルの人々に会い、話を聞く。かしこまってのインタビューではない。
対象者とファストフード店でだべり、公園で遊び、夕食を共にし、BBQに招かれ、墓参りに付き合う。それぞれの行為の中で、対象者はその時に思ったことを語る。考え、整理した言葉ではない。
ワークショップの参加者は、各々その言葉を「聞く」。

帰宅した4人は宿舎の一室に集まり、各々が聞いた言葉を皆に「語る」。
そして(ここからが上述の「一応」であり、このワークショップと映画の特徴となるのだが)、それをカメラの前で一人ずつ、「語り直す」のである。

それらを経て、4人の参加者は各々割り当てられた季節の物語を、地元の高台の公園に集まった高齢者たちの前で朗読する。

参加者4人は、自身が聞いてきたことを「語る」のに苦しむ。発する言葉は、しょっちゅう淀み、詰まる。適切な言葉が出てこず、もどかしさのあまり、ジェスチャーが多くなる。
2021年3月5日の朝日新聞夕刊の映画評(映画ライター・月永理絵)の言葉を借りれば、参加者は語ることを「おそれれている」。

「忘れない」「語り継ぐ」とは、どういうことか?
4人が抱いた「畏れ」が、「忘れない」「語り継ぐ」ことの困難さを詳らかにする。

米川幸リオンが「町のことを伝えてってほしいってのはすごく言われたので、そうしたい」と言うと、坂井遥香がこう言う。「ひとにあって話をきいて、でもその話って、はなすのってひととひとで、それをうけとらないと話はなりたたなくて、でも、うけとるのは自分で、そのときの会話の、ほんとの感じってのが、なんか時間がたったり、少しかわってしまうんじゃないかってのがあって、それがこわいというか」「絶対無理なんだけど、誰かに話すときに、そのひとのことをほんとうに、そのまま伝えたい、誰かの存在っていうのを、傷つけずにというか、崩さずにというか、そういうふうに、願望としては伝えたい」。若い古田春花がこう返す。「それって自分自身でもできなくないですか? 自分のことを話すことでさえ、自分を自分がみる視点もいろいろあってすごい難しい。でもそうしたいっていう気持ちはすごくわかる」。

(映画パンフレットより)


ワークショップは2018年に行われた。
4人は、2021年公開の映画パンフレットで「まだ、あの時の体験を考え続けている」といった意味のコメントをしている。
もちろん、この映画を製作した小森・瀬尾も考え続けている。

それは我々観客も同じだ。

映画は何も説明することなく、4人の姿を追う。
その映像に各々の「語り直し」や「朗読」が、話の流れや時間軸を無視して挿入される。
どういった状況で、何が行われているのか、その先にどういう展開を予想すればいいのかわからず、観客は混乱する。

これはつまり、観客はスクリーンを通して「体験者の語り」を聞いているのではないのか。しかも、その「体験者」は「対象者」ではない。「対象者の話を語る参加者」だ。
語りは上述のとおり整理されず、順番もめちゃくちゃ、言い淀む、詰まる。
しかし「熱意」は伝わる。
観客は自身で理解・消化できないまま、その体験者の「語り」を、熱意とともに「体験」する。


それにしても、『二重のまち/交代地のうたを編む』とは意味深いタイトルだ。
もちろん『二重のまち』というのは、瀬尾が書いた物語のタイトルであり、物語のモチーフでもある。「昔のまち」が「今のまち」に交代するともとれる。
しかしそれ以上に、「物語のモデルとその物語を語る者」「体験したことを語る者とそれを聞く者」という二重性を強く感じさせる。
その二重性が、各々が小森のカメラの前で「語り直す」ことにより、「体験者の話を聞く体験をした者の語り」となり、語り部は「交代」していく。
そして、体験者の話は、やがて「忘れない」「語り継がれる」ものとなる。

もちろん、「語り直し」を観た我々にも「語り継ぐ」ことが託される。
そして我々も、4人と同じように、先に引用した「畏れ」を抱く。
だから、この映画を説明するのは難しい。


ちなみに、冒頭に挙げた「記録したものの保存/再生」が「忘れない」「語り継ぐ」ことにならないのは、小森の別映画『空に聞く』(2020年)で示唆されている。
この映画は、震災後に開局したコミュニティーFM「陸前高田災害FM」(2018年閉局)でDJをされていた阿部裕美ひろみさんを追ったドキュメンタリーだが、その中で阿部さんがこんな話をする。

「陸前高田災害FM」では、毎月11日(月命日)のあの時間、黙祷もくとう放送を流している。
ある日取材に来たNHKのディレクターが、黙祷放送が必ず生放送されていると知り、「なぜ録音したものを流さないのか?」と聞いたそうである。
たしかに、毎月決まった時間に同じ放送をするのだから(しかも、ほとんどは無音)、録音にすればいいじゃないかと誰もが思うし、ディレクターも素朴な疑問を口にしただけだろう。
阿部さんはディレクターにこう返したそうだ。
馬鹿じゃないの!?

「馬鹿じゃないの!?」。この一言は重い。
ただ記録したり、再生したりするだけではダメだ。再生したものを漫然と見たり、「知識」として受け止めるだけでもダメだということを、この一言が厳しく教えてくれる。
「忘れない」「語り継ぐ」とは、この「馬鹿じゃないの」という言葉に込められた「何か」を考え続けることでもあるのでは、と私は思う。

だからこの先、本稿に追記を重ねていくのか、別稿として書き継いで行くのか、あるいは別の方法なのか、今はわからないが、映画をとおして託された一人の観客として考え続け続けなければならないと思ってもいる。

(2021年3月13日。@ポレポレ東中野)

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