今泉力哉監督作品オールナイト上映 @テアトル新宿(『退屈な日々にさようならを』『街の上で』『サッドティー』)を観て思った取り留めもないこと…(感想に非ず)

2024年6月29日夜から明け方にかけて、テアトル新宿で今泉力哉監督の特集上映会が行われ、満員の観客の前で、映画『退屈な日々にさようならを』(2017年)、『街の上で』(2021年)、『サッドティー』(2013年)(上映順)が上映された。
各映画上映前には今泉監督自身の挨拶とサイン会が行われた。ただし、今泉監督は急用のため、午前4時半に映画館を出なければいけなくなり、舞台挨拶で予定されていた質疑応答を止め、サイン会に時間を割いていたのが今泉監督の人柄を表していた。

ということで、本稿は上記3本を観ながら思った取り留めもないこと(感想ではないし、だから論旨もはっきりしない)を、上映順に書いていく。

退屈な日々にさようならを(2016年)

最初に思ったのは、この映画は「"今泉力哉"のメタフィクション」であるということだった。
この映画と『サッドティー』は、俳優・映画監督養成の専門学校「ENBUゼミナール」のワークショップをベースに映画を制作する「シネマプロジェクト」の作品(このプロジェクトからは他に『カメラを止めるな!』(上田慎一郎監督、2018年))で、ENBUゼミナールの市橋浩治代表取締役によると『今泉監督から、(自身の出身地である)福島という舞台を通じながら、震災とか色んなことを伝えたい、どうしても実家で撮影をしたい、と要求があった』[1]と証言しているとおり、カギを握る双子の兄弟の苗字は「今泉」であり、弟の次郎は失踪し「山下義人」という偽名で東京で(自主)映画監督をしている。
その偽名は、次郎の高校時代の恋人でありその関係を周囲に咎められて自殺した男のもので、その男の夢を継いで映画監督になった……と、自殺する前に撮ったセルフビデオで告白する。そのビデオに映る義人=次郎は、長髪髭面で完全に今泉監督を想起させる。
構造として、今泉監督を想起させる風貌の男が死んだ男の名前を継いで映画監督になり、最終的に自殺する……のを、今泉監督自身が撮っているという複雑なメタになっている(今泉監督は誰を殺したのか?)。

今泉監督自身は、上映後の挨拶でこの映画制作のきっかけの一つとして、「高校時代の同級生が、大人になって病気で亡くなった。そのことを自分は、彼が亡くなってから3カ月後に聞かされた。当時、特に仲良くはなかったけれど、じゃぁ彼が亡くなってから自分がそれを知るまでの3カ月の間、自分の中で彼は生きていたことになるのか。或いは、知らされなければ、この先も彼は生きていると思っていたのか、と考えたこと」(このとおりではないが、大意としてはこんな感じ)と語っている。

だから、義人=(今泉)次郎の自殺を最初から最後まで見届けた後に上述のセルフビデオによって真実を知った恋人は、彼が死んだことを知っていながら、「東京からも失踪してしまった次郎(=義人)を探しにきた」と嘘をついて、双子の兄・太郎の元を訪れるのだが、結局、嘘がバレてしまう。
『死んでるのを知っててソイツの地元にフラフラ来て、平気な顔して家族に会うって絶対におかしい』となじる太郎に、恋人は答える。

義人(次郎)が生きてるって信じてる人たちに会ってみたかったのかもしれない。ここに来たら、あたしの中の義人も生き返るかもしれないって、思ったのかもしれない。

この発言もまた、次郎が生きて帰ってくるのを信じて待っていた(元)彼女に咎められるのだが、それも含めて、では「他者が生きている」とはどういうことなのか?
それは量子力学で語られる思考実験「シュレーディンガーの猫」と同じなのではないか。つまり、「観察」されるまで猫は「生きているか/死んでいるかのどちらか」ではなく、「生きていると同時に死んでいる」。
では、「映画としてフィルムに焼きつけられた故人」は?
義人=次郎のセルフビデオが再生されたとき、彼は?

この映画のもう一つの軸は、映画監督志望の二人の若者で、メインとなる方は今泉監督を想起させるメガネ(義人=次郎はメガネをかけていない)と無精髭で、先に監督デビューしたもう一人に嫉妬して喧嘩をふっかけてしまう。その後の顛末までが、「映画監督(志望)」のセルフパロディーになってるのだが、それ以外にも二人は「映画」そのもののメタフィクションにもなっている。
二人は、全く同時に全く別々の事情から「死体を埋める」手伝いをさせられるのだが、それはつまり、「非日常を生み出すはずの映画監督が、非日常に巻き込まれる」ということであり、日常と非日常が逆転してしまう。
死体を埋める指示役の女にメガネの男は、『しょっちゅう人が埋められている光景を見ているのか?』と問う。肯定する女は驚く男に言う。

「日常」って、人の数だけ存在するんですよ

言われてみればそのとおりだ。
我々一般人は、ライブや芝居を観に行くことを「非日常の体験」と捉えているが、毎日どこかの劇場やライブハウスで公演を行っている者からすれば、それが「日常」だ。
『退屈な日々』が「日常」の隠喩だとすると、『さようならを』とはどういうことか?

この映画において観客を混乱させるのは、普段観ている映画のセオリーを外したかのような音楽だ。

本当にフラットな状態で一回観たヤツに音を自由に付けてほしいと(今泉監督に)言われて。
でも、同じシーンでも、たとえば喫茶店で話をしているシーンでも、ちょっと悲しいコードを乗せると、そのシーンは一気に悲しくて暗いシーンになるし(略)。
今泉さんの映画って、結構「自由にやっていいよ」と言われたんだけど、解釈がすごく難しいし、簡単に正義と悪とか、すごくわかりやすいものがあったらアプローチしやすいんですけど、それが曖昧に混ざり合ってるというか、編みこまれているのが、ずっと全編に続くから、試されている気がする。

[1]

劇伴を担当したマヒトゥ・ザ・ピーポー(GEZAN)は、こう証言している。
つまり、「今泉力哉」「映画」のメタフィクションとして、観客が簡単に解釈に乗ってしまう(逆に言えば、映画が解釈を誘導する)のを避けているのではないか。

『街の上で』(2021年公開)

先の『退屈な日々にさようならを』を受けて言えば、この『街の上で』の撮影時期は小田急線の下北沢駅の地下化工事の真っ最中で、工事が完了した2024年現在では絶対に見られない光景だが、下北沢に来たことがない人が映画を観れば、その『街』は「現在も生きている」ということにならないだろうか?
たとえば、カワナベさんが死ぬ前日に訪れたカフェの店主が『満席で「ごめんなさいね、また」って言ったら、カワナベさんが「はい、また」って入り口のとこで手振ってさ(略)あの時、ウチでご飯食べてたら、まだ生きてるのかもな、みたいなことを考えちゃうんだよね』と言う時(ただし、『もし入れてたらカワナベさんは何食べたか』って話になったとき、『俺、カワナベさんじゃないからわかんないや』と答えるのが、違うところ)。
たとえば、萩原みのりさんが出てきたときとか(いや、彼女は亡くなっていないが……)、逆に、シーンがまるごとカットされてしまった青の存在とか……
或いは、魚喃キリコ著『南瓜とマヨネーズ』の聖地巡礼とか……

この映画、公開当時に観てとても気に入ったのだが、その後BS放送された録画ビデオを見返す気にならなかった。
その理由が今回映画館で再見してわかった。
この映画、第三者的に「居心地が悪すぎる」のだ。
「居心地が悪すぎる」のは、シチュエーション的なのもそうだが、主に「会話が脱臼し続けている」ことにある。すれ違いとか、成立していないとかではない。
それが『街の上で』という作品全体としてみると「居心地がいい」というところが「映画的な面白さ」であり、だから映画館以外の「日常」の中で見るのが難しい。
「映画的な面白さ」とは、ある意味において、「ありそうにないことが、あるよう(リアル)に思える」ということでもある。

今泉力哉は「リアリティのライン」に非常に意識的な映画作家である。(略)彼の作品では常に「ありそうでなさそうな/なさそうでありそうな」出来事の連鎖と展開が描かれる。現実味とつくり話っぽさをほとんど本能的な巧さと大胆な誠実さによって自在に織り交ぜながら、今泉は「ありそうでなさそうな/なさそうでありそうな」話を語ってゆく。しかしそれはストーリーテラー的ではない。(略)しかしそれでも幾つもの偶然は淡々と、意外性はなにげなしに、ふわりと街の上に舞い降りてくるのであって、そこには大袈裟なドラマチックさはほとんど感じられない。つまりそれは映画というフィクションよりも現実世界の「リアリティのライン」の内側に-たとえどれほどありそうになく思えることでもときにはあり得るのだし、そのことを私たち自身が体験的によく知っている、という意味で-慎ましく留まっている。そう、友だちの友だち、知り合いの知り合いに、ほんとうに起こった話、という感じなのだ。

[2]

この今泉監督の作家性を具現化するのが、雪であり、それを演じる穂志もえかである(改めてスクリーンで観て、もう、ほとんど「一人勝ち」の状態と思ってしまった。以前の拙稿にも書いたが、冒頭・終盤・ラストで表情そのものが違うのは、本当にすごい)。

改めてスクリーンで観たついでで言えば、やっぱり『杉咲花の撮休』「第2話 ちいさな午後」(今泉監督)を思い出してしまう[3]。「杉咲花」の同居人に中田青渚、行きつけの定食屋の客に若葉竜也(このシーンは杉咲(本人)の主演作『市子』(戸田彬弘監督、2023年)の宣伝時によく使われていた)、公園で出会う会社をクビになったサラリーマンに芹沢興人……ちなみに若葉竜也は、やはり今泉が監督した『有村架純の撮休』で「有村架純」を口説いていた[4]。

サッドティー(2013年)

「協力」の欄に根本宗子氏の名前があったのでそこから始めると、彼女の脚本・演出の舞台(2015年初演)を映画化した『もっと超越した所へ。』(山岸聖太監督、2022年)は、「クズ男」の見本市だった。
それに倣えば『サッドティー』は、「ダメ人間」の見本市で、自他ともに認める「ダメ男」である今泉監督[1]の(映画的な)悪意で満ちた、本質的な哲学を笑いで包んだ良作だ。

冒頭からいきなり公園の狭いエリアを競歩でぐるぐる歩き回る謎の男が出現し、延々と続くシーンにうんざりしかけたところで、男が鳩を追いかけて追っ払う。
男が別れ話をしに来ると悟って、自分を好きな冴えない男(この人が本当に素晴らしい)を呼んでしまう女とか、それで女が復縁しそうになると男が消えていくとか、情にほだされて女の頭を撫でていた男が復縁すると決めた後、撫でていた掌の匂いを嗅ぐとか。
「走れメロス」的感動シーンの落とし方とか。

男は全員ダメ男で、もう選り取り見取り状態。
前出の市橋氏によると、今泉監督が好む男性俳優は『コミュニケーションがとれないとか、敬語が使えないとか、目線が少しおかしいとか、おどおどしている(略)が、"その人なりに"ちゃんと生きようとしている人』[1]だという。
たとえば、彼女の誕生日プレゼントを買いに行った古着屋で、試着してみせた(これもヘンだが)店員がその服を脱ぐときの色気や襟口から見える下着に魅了されて好きになってしまうが、本人は「(自分なりに)ちゃんと生きよう」と思っているので、彼女の誕生日にプレゼントを渡した後に理由を説明して別れを切り出してしまう男とか。

この映画の「ダメ人間」は男だけでなく女性もいて、それが内田ちか演じる「元アイドル」(彼女もまた、ライブで前日に「女になった」と告白してその場で卒業してしまう、という「(彼女なりに)ちゃんと生きよう」とする)で、DV男に惚れて結婚までしてしまう。

で、この「元アイドル」と「謎の競歩男」が「走れメロス」的感動のラストに繋がるのだが、ここでも上述のとおり、映画的悪意がさく裂する(内田滋は、この顛末のリベンジを2018年に果たす[6])。

この物語のメインは、浮気性な上に関係した女性と(自らの意志では)別れられない男で、その理由を彼は『好き、がわからない』と説明する。
それが彼の本気・本心なのは、彼が女性であれば誰かれ構わず口説いたり、女性に過度に依存したりもしない(だから上述のネモシューの「クズ男」とは違う)ことからもわかる(さらにいえば、『好き、がわからない』のは男性の彼だけでなく、古着屋(兼カフェ)店員の女性も同じだと自己申告することからもわかる)。
私は、このイベント開催時に公開中である映画『からかい上手の高木さん』(2024年)についての拙稿でも『実は恋愛を描いていないのではないか』と書いたが、今泉作品に通底するのは「好きって何?」ということで、それは世間一般で信じられている(別の言い方をすれば「好き(或いは恋愛)に対する空気」でもある)「好き」への不信ではないか。
だから、今泉作品全てを『あれも愛、これも愛、たぶん愛、きっと愛』[7]の見本市と捉えることもできる。
で、「これも愛だ!」と言い切ったのが、角田光代原作の映画『愛がなんだ』(2019年)だともいえるが、いずれの登場人物においても確かに「(恋愛的な)ダメ人間」ではあるがしかし、『"その人なりに"ちゃんと生きようとしている人』である。
そんな人々を肯定し続けているからこそ、今泉作品は「恋愛映画」として受け入れられているのではないか。

メモ

odessa Midnight Movies Vol.19 今泉力哉監
映画『退屈な日々にさようならを』、『街の上で』、『サッドティー』
2024年6月29日。@テアトル新宿

本文に書けなかったのでここに書いておくと、『サッドティー』における『何て名前に見える?』の長回しは、『街の上で』の『聞きますよ、恋バナ』に通じている。

参考資料

[1] 日本映画専門チャンネル「いま、映画作家たちは2020 監督 今泉力哉にまつわるいくつかのこと 前編/後編」(2020年5月)
[2] 佐々木敦著『映画よさようなら』(フィルムアート社、2022年)
[3] WOWOWドラマ『杉咲花の撮休』第2話 ちいさな午後」(2022年、脚本・燃え殻)
[5] WOWOWドラマ『有村架純の撮休』「第2話 女ともだち」(2020年、脚本・ペヤンヌマキ)
[6]映画『ピンカートンに会いにいく』(坂下雄一郎監督、2018年)
[7]「愛の水中花」(松坂慶子・唱、五木寛之作詞・作曲、1979年)




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