高野慎三著『神保町「ガロ編集室」界隈』

高野慎三著『神保町「ガロ編集室」界隈』(ちくま文庫、2021年。以下、本書)を読みながら、改めて「インターネット社会以前のコミュニケーションは、"身体性"を伴っていたんだな」と思い知った。
昭和50年代頃までの日本は、漫画雑誌に『〇〇先生にお手紙を書こう』などとマンガページの端に漫画家本人の住所が堂々と載っていて、そこに読者は「直接」手紙やハガキを送るという、個人情報もへったくれもない、良くも悪くも、開けっぴろげな大らかさがあった。
「直接」という意味においては、SNSが発達した現代の方がよりコミュニケートできているとも言えるが、昭和と現在で大きく違うのが"身体性"である。
昭和においては、手紙やハガキを自分の手で書いてポストに投函する必要があったが、現在においてはボタン一つである。それはただのデータのやり取りであって、そこに"身体性"はない。

『ガロ』といえば、池上遼一やつげ義春といったマニア受けする個性派の漫画家を輩出した伝説の漫画雑誌として知られるが、元々白土三平作品を掲載するために、1964年に創刊されたという。
本書は、ガロ創刊から数年間、その出版元である「青林堂」に勤めていた著者の回顧譚である(実際はそれだけではないが)。

何故本書を読んで、コミュニケーションが"身体性"だったと思ったのかといえば、もちろん当時の漫画が手描きだったからということもあるが、それ以上に、作者も読者も「直接」コミュニケートしていたことが記されているからだ。それは『「ガロ編集室」界隈』というタイトルからも窺い知れる。

本書がある意味での「回顧譚」であるのは、「ガロ編集室」に顔を出していた人たちを回想しているからである。

まず、著者自身が「ガロ編集室」を訪ねた張本人である。当時、書評誌「日本読書新聞」に勤めていた著者は、「ガロ編集室」で編集長の長井勝一氏と出会う。

60年代半ばだったが、そのとき長井さんと何を話したか記憶がない。初対面ん挨拶をしたあと、白土三平さんについていくつかの質問でもしたのかと思う。
夕方近くになったのでおいとましようとすると、長井さんが「近くの飲み屋に行きませんか?」と誘った。(略)10人も入れば満席の居酒屋だ。

その後著者は「ガロ編集室」に転職し、漫画家に原稿の依頼をしたり、数々の新人漫画家を発掘したり、読者の相手をした。
当時は、原稿はもちろん手描きで、それを電子データにしてインターネットやFAXでやり取りするための通信手段はなかったからから、原稿は郵送か直接手渡すことが当たり前だった。

編集室には『ガロ』のほとんどのマンガ家が原稿を携えてやってきた。それぞれの住まいに原稿を受け取りにいくこともあるけれど、マンガ家本人が持参することのほうが多かったように思う。つげ義春、つげ忠男、滝田ゆう、林静一、佐々木マキ、楠勝平、つりたくにこ、勝又進、池上遼一、鈴木翁二、安部慎一、古川益三ますぞうさんらの、訪れたときの姿や様子が思い出される。
(略)
つげ義春さんは、いつも雪駄せった履きでやってきた。とくに暑い夏は雪駄が気持ちよくて歩きやすい、とお気に入りだった。

雪駄履きなどのどかな風情で漫画家自身が原稿を携えてやってくる。
お茶など飲みながら編集者たちと雑談をしたり、マンガのアイデアを相談したりして、また元来た道を帰ってゆく(たまには、連れ立って飲みに行くこともあっただろう)。
何と大らかな時代だったことだろう。

現代のようにSNSやメールなどがなかった時代、編集室にやってくるのは漫画家だけではなかった。
先に読者の相手と簡単に書いたが、読者も「直接」編集室に訪れてしまうのだ。それも気軽に。
当然、雪駄履きで訪れたつげ義春氏も読者とハチ合わせすることもあった。

つげさんは(ハチ合わせた)読者の質問に真面目に答えていたが、ちょっとつらそうに見えることもあった。作品についての質問や考え方への質問は少なく、日頃どんな生活をしているのかという、言ってみれば他愛のない質問だったからだ。
つげさんがいないときにつげファンを自称する女子高校生がやってきて、ひとしきりつげ作品論を展開した。(略)ベトナム反戦運動が激しかったころなので、「デモには行かないの?」と問うと「ああ、デモね、高校一年生のときにさんざんやったわ。全学連の委員長も学校に呼んだよ。でもね、やっぱりいまはつげさんよね」とうそぶいた。

これもまた当時を思い起こされるエピソードだ。まだ、若者たちが自身の手で社会を変えられると信じていた時代……
編集部に訪ねてくる者だけでなく、全国の読者からの投稿が編集部へ届けられ、読者欄は作家や作品に対する論争で盛り上がっていた。

それにしても、読者の若さに注目する前に、作家の若さにもいまさらながら驚嘆する。この頃、一番年長の水木しげるさんが40歳をこえたばかり、白土さんと滝田さんが、34、5歳。つげ義春さんが29歳、(つげ)忠男さんが26歳だった。楠勝平、勝又進、池上遼一、林静一、佐々木マキ、つりたくにこさんらは、全員19か20歳そこそこだった。
つまり、楠さん以下はみな読者とほぼ同年齢だっだのである。『ガロ』の読者欄で、これら若い作家の作品に向けて賛否の大論争が延々と展開されたのは、それぞれの作品が十代の読者の心情を代弁するものと受けとられたからだろう。

これらもまた、月に1度、購入した『ガロ』の作品を熟読し、読者欄を読み、それなりに論考した意見を自らの手でしたため、ポストに投函し、その反応が得られるのは数カ月先といった手間暇が掛かるものだった。
しかし、その手間暇を掛け、反応を待つという、ある意味での"身体性"や"余裕"が、熱い議論を闘わせる土壌になっていたのではないか。

対して21世紀の現代、感想や意見は、SNSで簡単・瞬時に送り送られ、ほとんどタイムラグなしに反応を得られるようになった。
それによって確かに、ある意味における「熱い」議論が交わされているかもしれないが、しかし、"身体性"と"余裕"を失ったそれは、あの頃と同じかそれ以上の意味・熱量を持った「意味ある熱さ」につながっているのだろうか?


ちなみに、書店で本書を手に取ったのは、目次に「梶井純を偲ぶ」という章を見つけたからだ。

梶井純(長津忠)が、2019年7月23日に急逝した。享年78歳。
彼とは60年に及ぶ交流がある。
(略)
『戦後の貸本文化』(東考社)や『トキワ壮の時代 寺田ヒロオのまんが道』(筑摩書房)も梶井にしか著わせない、地味ではあるが濃い内容の名著である。

1993年に出版された『トキワ壮の時代 寺田ヒロオのまんが道』(2020年の文庫化(ちくま文庫)の折『トキワ壮の時代』に改題)は、1996年に公開された名作映画『トキワ荘の青春』(市川準監督。2021年にデジタルリマスター版公開)のヒントにもなった。
この本と映画において、本書でも登場するつげ義春氏と、トキワ荘の住人であった赤塚不二夫氏の親交も紹介されている。
先日、『トキワ壮の青春』を見返してみた。
少しだけ、つげ義春氏の印象が違って見えた。


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