新作も古典も「言葉」が人を翻弄する~舞台『いのち知らず』『ジュリアス・シーザー』~

2021年10月に東京・下北沢の本多劇場で上演された舞台『いのち知らず』の作演出・出演の岩松了は、この芝居のインタビューで『今を書こうと思ってる』と発言したことに、インタビュアーが『それはコロナ禍を反映するということですか?』と聞かれ、『そうじゃない』『それを考えた時点でもう過去になってしまう』と答えたという。

確かに『いのち知らず』にはコロナは出てこない。しかし、確かに「今」を書いている。
「今」を書いているのは、新作だけでなく、古典も同様だ。
この新作と古典は、人間が如何に言葉に頼っているのかを炙り出す。


M&O Playsプロデュース 舞台『いのち知らず』

舞台『いのち知らず』(岩松了作演出・出演)が描く「今」は、「根拠が全くないデマとも云えるような不安定な情報の発露と、それに翻弄されて人々が分断されていく」様だが、その分断が、双方がそれぞれ「エコーチェンバー」によって自らの考えを強固にしていくことによって増強することを露わにする。

ロク(勝地涼)とシド(仲野太賀)は中学時代からの親友で、将来二人でガソリンスタンドを経営する夢を叶えるため、給料がいい、山奥にある施設の門番の仕事に就いた。
その施設は鬱病などをかかえた人たちの更生施設だというが、彼らは見たことがない。
ある日、先輩のモオリ(光石研)が「ここは更生施設ではなく、死んだ人間を生き返らせる(蘇生)研究をしている」と言い出し、その真偽を巡って、ロクとシドの仲に亀裂が生じていく、というのが大枠のストーリーとなる。

「施設の正体を解き明かす物語」ではない。
そもそも「施設の正体」など無い。
本当に「更生施設」だったとして、「蘇生実験施設」と思い込んでいる人には、直に施設内を案内されても、実際には無い(はずの)「その裏」ばかりが見えてしまう。
「更生施設」だと思っている人が「蘇生実験施設」を案内された場合も同様だ。

元々「蘇生実験施設」と言い出したモオリとて、自分の体験として何かを見た/知ってしまったわけではない。
モオリの知り合い・トンビ(新名基浩)の双子の兄が施設に入ったあと、シンガポールからハガキ1枚寄越して音信不通になった、という話に、自分の職務での経験を重ねただけの、現時点では「想像」でしかない。

施設に確かめに行ったまま「音信不通になった」母を探すためにロクとシドが住む建物に居候することになったトンビの話だけを聞くと、「蘇生実験施設」かどうかはわからないが、何か「更生施設」とは別の「裏」があるとも思える。
だが、トンビは出て行く前の母を「喧嘩の末、なじっている」のである。「電話に出てくれない母」は単に「詰った息子を許していない」だけかもしれない。

ロクは自分たちが番をしている門の中では「蘇生実験」が行われているのではないかと疑い始めるが、信じ切るまでには至っていない。

一方、シドは施設の所長の直属の部下・安西(岩松了)に真偽を確かめる。もちろん安西は否定し、シドは完全否定派になる。

以降、シドは安西に気に入られ(たように見える)、門番ではなく施設の職員の仕事も任されるようになり、所長の家にも招かれる。
「所長がシドの誕生会を催す」名目のためロクは招かれず、それが決定的な分断への始まりとなる。

「更生施設」だと信じて疑わないシドは、自分に対する処遇を純粋に「仕事が認められた」と思っている。
しかし、「蘇生実験施設」と疑っているロクやモオリからは、安西に直接聞いたシドが「(秘密を知られたと思った)施設の計略により取り込まれようとしている」ように見えてしまう。

かくて、ロクとシドは互いに相手を「蘇生実験施設に騙されているヤツ」「ありもしない妄想に憑りつかれたヤツ」と詰り、友情に亀裂が生じてくる。

わかりやすく言えば「陰謀論」だが、「常識的な人間」だと思っている我々は通常、後者の「ありもしない妄想」を「陰謀論」と考えがちだ。
しかし、目の前で展開する物語はそう単純には既定しない。

観終わった後、「ロクやモオリが陰謀論に憑りつかれている」と確信できる観客はいるだろうか?

『うわさとは何か』(中公新書、2014年)の著者・松田美佐氏は、2021年9月23日の朝日新聞の記事の中で、こう述べている。

「陰謀論を信じる人は社会に不安や不満のある排他主義者」「危険な行動を起こすおそれがある」などと警戒する人もいますが、「陰謀論者」を断罪し、排除する側の「正しさ」も実はあいまいなものです。(略)「陰謀論」と名指しされる基準はどこにあるのでしょう。

上述したが、舞台『いのち知らず』の中で、施設の「(作者の)設定」は明かにされない。この作品の作演出家でもある岩松演じる施設の職員・安西は噂を否定する。
その根拠として、たとえば安西(=作者)が、実際に施設を案内(=施設内のシーンを提示)したとして、果たして観客は素直に「更生施設」だと納得するだろうか?
生の舞台で実際のやり取りを見せつけられると、「非陰謀論者」として日常を(真っ当に)生きていると思っている自分の足元が揺らいでくる。


さらに、その「陰謀論」の出所も、興味深い。
この物語においても、先述したように、モオリ自身が決定的な状況に遭遇したわけではない。
自身の門番としての経験、トンビの話といった「状況証拠」とも言えないような些細なことから想像した「単なる思い付き」かもしれないのだ。
それをロクとシドに話したこと、さらに2人が真逆の意味で信じてしまったことが、「単なる思い付き(かもしれない)」話に信ぴょう性を持たせてしまった。

これと同じことが、SNS上で日常的に起きている。
ネットニュースなどを見て思ったことの「個人的な意見」を、あるいは「仲間内だけのネタ」のようなものを、軽い気持ちでネットに投稿する。それを見た「事情や背景を何も知らない第三者」が、コメントあるいはリツイートする。
「単なる個人的な意見/ネタ」だった他愛もない話が、肯定/否定に関わらずネット上で拡散されることにより、ある種の「信ぴょう性」を帯びてしまった末に、肯定派・否定派に分かれ、双方が一方を「陰謀論」だとして攻撃し始める…

確かに「コロナ禍」だけを考えれば過去になってしまうが、この「言葉の伝搬」は、確かな「今」である。


舞台『ジュリアス・シーザー』

「言葉」によって人々が翻弄されてしまうのは、何もネット社会になった現代特有のものではない。
最初に「言葉」を獲得したときからずっと、人間は「言葉」に翻弄され続けてきた。

お前もか、ブルータス
この有名な言葉を遺したジュリアス・シーザーを暗殺したブルータスもまた、言葉に翻弄され、言葉に殺された人物だ。

『いのち知らず』の後に渋谷のPARCO劇場で観た舞台が『ジュリアス・シーザー』(ウィリアム・シェイクスピア作、福田恆存訳、森新太郎演出)である。
この作品、出演者が全員女性オール・フィメールという特異な上演形式で興味深いのだが、私は『いのち知らず』からの流れで、「言葉」について考えながら観ていた。

舞台は共和政末期のローマ。
宿敵ポンペイを打ち破ったジュリアス・シーザー(シルビア・グラブ)が民衆に圧倒的に支持され、いよいよローマの頂点に立とうとしていた。
そんな中、シーザーの片腕とも言われる存在であるブルータス(吉田羊)は、調子に乗り続ける友・シーザーを案じ、どうすればいいのか苦悩していた。
シーザーの勢いがローマの共和政を壊し、独裁政治に通じることを危惧したキャシアス(松本紀保)は、ブルータスの苦悩につけ込み仲間に引き入れた後、シーザーの暗殺を決行する。
ブルータスは動揺する民衆の前で暗殺の正当性を訴える。
その演説にほだされた民衆は、シーザーの暗殺に納得し、ブルータスを支持するようになる。
しかし、続けてシーザーの腹心だったアントニー(松井玲奈)が述べた(心が籠ったように聞こえる)弔辞が、再びシーザーへの尊敬を呼び覚まし、ブルータスたちへの憎悪を煽り、民衆を暴徒化させる。

大衆(民衆)が「言葉」に扇動されて暴徒化するのは、シェイクスピアの時代だからではなく、21世紀を生きる我々とて変わらない。
その証拠に、2021年初頭のアメリカで、前大統領のSNSの言葉に扇動された人々が議会議事堂を襲撃するという、まさにこの作品を地で行く事件が起こっている。

日本でも、SNSなどで根拠がない情報を目にした人々がそれを鵜呑みにし、特定の人々を攻撃するタイムラインが形成されるが、たった一つの書き込みや報道の「言葉」を機に潮目が変わり、慌てて皆が進むべき道を探して右往左往するなんてことが日常的に起こっている。

この作品で「言葉」に翻弄されるのは大衆だけではない。シーザーを始め、登場人物は皆、言葉に囚われている。

物語は、盲目の占い師が、ポンペイを打ち破ってローマに凱旋するシーザーに『気をつけるがよい。3月15日を』と告げるシーンから始まる。
このお告げはシーザーだけではなく、同行していたブルータスやキャシアスらも聞いており、この瞬間から全員が「3月15日」を意識し始める。

ブルータスらは、自らお告げに導かれるかのように「3月15日」に暗殺を決行する。
シーザーもまたお告げに囚われ、その呪縛を解こうと、妻の必死の懇願を振り切り外出を決行してしまう。そして暗殺される。
「占師の言葉など信用しない」と虚勢を張れば張るほど、その言葉を信用してしまっている無様さが浮き彫りになる。

日本には「言霊」という言葉があるが、かようにも、人間は「言葉」の呪縛から逃れることができない。


ところでこの物語、アントニーに渡った権力も長くは続かないことを示唆して幕を下ろす。
要するに、この2時間15分の物語は「権力闘争劇」なのだが、その闘争は戦いではなく「言葉」によって行われる。
それ故、「俳優が陶酔しながら朗々と役の内面を喋り倒す」シェイクスピア劇には珍しく、ほとんどが誰かに対して喋られる「会話劇」になっている(と、言っている私はシェイクスピア劇に疎い)。

元々が尋常でないセリフ量なのに加え、会話を聞き逃さないように常に緊張を強いられる観客の、ひと時の安らぎは、何と言ってもブルータスの世話係を務める10歳のルーシアス(高丸えみり)だろう。
ルーシアスは、短い言葉を訥々と話すか、無言、さもなければ寝ている。
ブルータスもルーシアスといる時だけは安らぎを感じているが、それによりブルータスと観客に共感が生まれる。
だからこそ、ブルータスの言葉の無い最期に高潔さと憐れみを感じるのである。


おまけ

両作品とも「会話劇」であり、全編とにかく「セリフ」で埋め尽くされ、進行していく。
それは音楽にも似ている。
テンポよく交わされる会話でグルーブ感を、一瞬の間や言い淀みで緊張感を。

岩松のセリフは俳優が「ずっと喋っていたい」というほどの美しい(「正しい」という意味ではない)言葉で構成されており(だから、言い淀みや言い直し、「え?」という聞き返しさえ、ちゃんと計算されている)、それを観ている(聞いている)観客も気持ちよくなる。

『ジュリアス・シーザー』は、1960年に福田恒存つねあり(1912~1994年)が訳したものだが、古い言葉づかいで書かれたものにも関わらず、とても心地よかった。気持ちよさそうにセリフを喋る俳優たちを観ながら、「そりゃぁ陶酔しちゃうよね」と思ってしまった。

それにしても、「静か系」「現代口語演劇」を観たあとの、シェイクスピア劇だったのだが、何と言うか…「お芝居を観ている」という実感がして嬉しくなってしまった。
舞台の真ん中に姿勢よく堂々と立って、相手役ではなく、観客に向かって朗々とセリフを喋る。
観ているだけでカタルシスを感じて、うっとりしてしまった。

一方、『いのち知らず』は、そのリアルさに、心底びっくりしたのだ。
まるでロクとシドの部屋にいるような感覚。
思わず二人の喧嘩を止めに入りたくなる気持ちを何度抑えたことか。

両極にあるような芝居だが、どっちも私の心を激しく揺さぶってくれた。
やっぱり芝居っていいな、と心から思った。


メモ

舞台『いのち知らず』
2021年10月30日 マチネ。@下北沢・本多劇場

舞台『ジュリアス・シーザー』
2021年10月30日 ソワレ。@渋谷・PARCO劇場


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