劇団た組 舞台 『ぽに』

『「ぽに」さんこちら、手の鳴るほうへ』
ダジャレとも取れる台詞に、観客が笑う。

「ぽに」という、ひらがな表記の愛らしさと語感のポップさから、ユルい「童話」を想像してしまいがちだが、幕開けから不穏な重たさが漂い、「息抜き」と思われた冒頭に挙げた笑いがラストシーンで突然、衝撃的なオチに転じ、物語は「背筋が凍る寓話」として幕を閉じる。

2021年11月に、KAAT神奈川芸術劇場 大スタジオで上演された、劇団た組『ぽに』(加藤拓也作・演出。以下、本作)は、これぞ「ライブ芸術」といった醍醐味を存分に味わわせてくれた。

円形センターステージの四方に観客席が設けられた劇場で、観客は「物語を観る」ではなく、「普段見られないが現実的にどこかで行なわれている行為を観察する」ことになる。

「普段見られないが現実的にどこかで行なわれている行為」とは、例えば、セックスの後の男女、身体目当てのデートDV気質のクズ男とそれに支配される女、自分の都合で不在にしていた間に起こった子どもの危機の責任を全てシッターに押し付けようとする夫婦、その不始末に付け込んでシッターに関係を迫る責任者…


主人公は、やりたい事が見つからなず、ひとまず海外に行く事を目標として、時給1000円でバイトシッターをしている23歳の円佳(松本穂香)。
物語は、いきなり、シッター先で円佳が好きな人である24歳の誠也(藤原季節)とセックスをした後とおぼしき状況で始まる。
この誠也が、暴力は振るわないものの言葉で女を支配する所謂デートDV気質のクズ野郎で、身体だけが目当てで円佳と付き合っている。
円佳も薄々気づいてはいるが、クズ野郎特有の優しさにほだされてしまい、別れることができない。
踏ん切りをつけるために、円佳は誠也に正式な交際をしようと告白するが、誠也はのらりくらりとはぐらかし続ける。

円佳が支配されているのは、誠也からだけではない。
シッター先の5歳の子ども・れん(平原テツ)は生意気で、円佳を奴隷扱いしているし、れんを預けている母親(豊田エリー)もシッター会社を通さず個人的に円佳に時間の延長を無理強いする。

2時間の物語の前半1時間、確たる自分の意志を持たないが故にあらゆる要求を拒否できず、結果的にそれに支配される、というか既に支配されることに一種の歓びすら感じているらしい円佳を、観客は延々と四方からひたすら「観察」することになる。

これを普段の生活の中で見てしまったら、きっと目を逸らし「見なかったこと」「なかったこと」にして、足早に現場から逃げ去ることだろう。
だからと言って興味がないわけでは決してない。
むしろ心の中は、興味津々の「野次馬根性」でいっぱいなのだ。
「演劇として演じられている」ことが大前提であれば、普段抑えに抑えている「野次馬根性」を全開にできる。
これこそ、「ライブ芸術」の醍醐味である。


物語は、中盤に起こった災害を境に、まるでそれが人々の価値観を大きく変えてしまうがごとく、突如、リアルに重い状況から「童話」の世界への位相ずれを起こす。
それに伴い、少しずつ笑えるシーンも出てくるようになる。

災害によってはぐれてしまった5歳のれんが、「ぽに」と呼ばれる存在となって円佳の前に現れる。しかも、43歳の姿になって…

この物語世界では、どうやら「ぽに」は当たり前の存在として認識されている…らしい。
「ぽに」となったということは、はぐれてしまったれんが発見されないまま瀕死の状態でどこかにいることを示唆している…らしい。
しかも通常、親に憑くと言われている(らしい)子どもの「ぽに」が、何故か円佳に憑いてしまう。
ここでも断り切れない円佳は、「ぽに」のための対処を引き受けることになってしまう。

対処の一つが、「身体」を捜すこと。
もう一つが「除霊」すること。

しかし、「除霊」と引き換えに「十中八九」失明すると言う。
ここでも断り切れない円佳は、自分の子どもではないれんのために、失明するということを深く考えずに除霊してしまうのだが、結果的に、れんの「ぽに」は消えず、失明もしなかった。
だって、霊媒師の除霊の呪文が、冒頭に書いた『「ぽに」さんこちら、手の鳴るほうへ』なのだから、これで除霊できる方がおかしいのである。

と、高を括って観ている観客の前では、相変わらず断り切れない円佳が、あらゆる困難を引き受けざるを得ない状況に追い込まれ続けている。

最終盤、それまで決断できない、断り切れない、観客がイライラを募らせるほどの「都合のいい女」だった円佳が、初めて自分の意志で行動し、それが誠也の暴力を誘発する。
いよいよ2人の別れが決定的となり、これが結末だと思われた「童話」は、ラストシーンで背筋が凍る「寓話」に変貌する。

もう全公演終了しているので書くが、本当の「ぽに」…いや「オニ」は円佳自身だったのではないか。

誠也と別れた直後、円佳は、瀕死の状態で発見され入院中だったれんの意識が戻ったとの連絡を受ける。

その瞬間、円佳は失明してしまう。

自分の意志を持たないから、円佳は人に翻弄されてしまうのだと思っていた。しかし、本当は円佳自身が、意志を放棄することで他人に頼っていたのだ。
意志を持たず自分の進むべき方向がわからない円佳は、つまり、目隠しされた「オニ」である。
だから何も考えず、ただ誰かが『「オニ」さんこちら、手の鳴るほうへ』と導いてくれる方向に進めばよかったのだ。それが苦難の道であっても…

誠也と別れ、れんが意識を取り戻した瞬間、円佳は誰からも何も翻弄されることがなくなった。だがそれは、『手の鳴るほうへ』と導いてくれる存在がいなくなったことを意味する。

導いてくれる存在があるうちは、目隠しされていても進むべき方向が「見えている」。
しかし、存在がいなくなった今の円佳は、目隠しされていなくても進むべき方向が「見えない」。
実際に視覚が失われていようといまいと、今の円佳は失明状態にあるのだ。

翻弄されるだけのメチャクチャな人生だと思っていた女は、実は、翻弄されなければ生きていけない女だった…
誰にも翻弄されず自分で決めた人生を歩む、世間では「人間らしい」とされる生き方への道が開けた女はしかし、その輝かしい未来にこそ深く絶望する…

失明した恐怖で立つことができず、座り込んだまま暗闇のあちこちに向かって必死に手を伸ばす女。だが、手を差し伸べてくれる者は一人もいない。『手の鳴るほうへ』と導いてくれる者もいない。
哀れな女を、観客が取り囲んで「観察」する。
その壮絶なラストシーンに背筋が凍った。


それにしても改めて、松本穂香は稀有な女優だと思った。
彼女自身が本当にそういう気質なのかと思わせるほどのリアルな受け身。
それに加え、ベッドシーンやヌード、或いはそれを匂わすようなわかりやすい視覚効果などに頼らず、台詞と身体の動きだけで「ありふれたセックス」の色香を醸し出せる人は、最近の(メジャーな)若手女優では、ほとんど存在しないのではないだろうか。

最初にそれを思ったのは確か、映画『おいしい家族』(ふくだももこ監督、2019年)だった。
バーで再会した後輩と、酔った勢いで壁ドン状態で抱き合っているシーン。
「ちょっと…当たってんだけど
ただそれだけの台詞で全てを理解させてしまう若手女優って、他にいるだろうか?

(2021年11月6日。@KAAT 神奈川芸術劇場 大スタジオ)

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