舞台『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』

京都に向かう新幹線の中で、「新潮」2023年10月号に掲載された『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』(岡田利規作・演出。以下、本作)の戯曲を読んでいた。
観劇の前に読んでおいて良かったと思ったのは、本作が日本語で書かれたテキストであるにも拘わらず、日本語を母語としない人たちで演じられたからで、だからナチュラルな日本語ではないからセリフが聞き取りづらかったのを補えた、という意味ももちろんある。
だがそれ以上に、矛盾するようだが、ナチュラルな日本語ではないからこそ、ひとつひとつの「言葉」が際立っていて、予め戯曲を読んでいたことによってそれらがはっきり認識できた、という意味で「読んでおいて良かった」と思ったのだ。

作者の岡田利規は「新潮」に、こんな言葉を寄せている。

日本語演劇における日本語の発話は、現状、日本語ネイティヴ・スピーカーによってほぼ独占されている。そして、主にはそのせいで-であるとわたしは考えているのだが-舞台上での日本語は多くがその強度が不問に付されたまま発話されている。
ここで言う発話の強度とは、その発話に備わる、聞く者の中に<入っていく>力、とでも言い換えられるべきもののことである。演劇を見に行き、そこで発される日本語が<入ってこない>と感じられることは、わたしにとって実は少しも珍しくない。

ネイティヴ同士の会話において、聞き手は話者の言葉を全て「聞いて」いるわけではない。逆に、「ニュアンス」で理解した気になっているだけだったり、或いは「流れによる先読み・予測」をしていることの方が多い。
これを岡田は『予定調和』だと評する。

「このせりふは『こう発されるのが良い』というような、ある種の予定調和がある。聞く人も日本語ネイティブで、コンテクスト(文脈)や文化を共有していることもあり、なあなあで受容が行われている」

朝日新聞2023年8月10日付夕刊

この『予定調和』を疑ってしまうと、岡田の言う『入ってこない』という状態に陥ってしまう。

さらに「母語」は、生まれた時から「自然に」習得するものである故、その言葉の意味(というか、それ以前に「それが何を指すか」すら)が深く言及されることはない。
さらに言えば、「言葉」が自己のアイデンティティーのほとんどを規定していることも確かで、何故なら、人間は「他者への伝達」だけでなく「自分の中の思考」においても言葉を使っており、従って「言葉がない(言葉にならない、ではなく、言葉そのものが存在しないという意味)」ことは考えられないからだ。
このことを岡田は、本作によってつまびらかにしていく。

舞台は宇宙船「イン・ビトゥイーン号」の船室。
アラシ・ナニシヲワバ、オニヅカ・ツツイヅツ、ブスジマ・チグブシマ、シラトリ・アマツカゼという4人の隊員と、隊員を世話する「ヨシノガリさん」と呼ばれるヒト型ロボット、ワームホール突入時の時空の歪みなどと思われる原因で突如船内に現れた地球外知的生命体(彼らはソレを<サザレイシさん>と名付けた)。
<サザレイシさん>役の俳優は、全身を直径が10センチ弱程の大きな粒を持つエアパッキンのようなもので覆っている(劇中では、「たくさんのレセプター(受容体)を持っている」と説明される)。
岡田は、ここで4人の隊員を「母語が日本語でない人」に、「人間」ではない役を日本語のネイティヴスピーカーに演じさせている。
この「倒錯」の意味も劇中で示唆されているが、それは後述するとして、約100分の物語は、地球外知的生命体である<サザレイシさん>とのコミュニケーションと、<サザレイシさん>が船内に表れた時の状況を思い出す、という2点を中心に展開する(ただし、<サザレイシさん>が物語の中心ではなく、あくまでも4人の隊員の「会話」を描いている点に留意)。

最初に言及されるのは「音楽とは何か?」ということで、「音楽」という概念がない<サザレイシさん>について隊員たちは、「レセプターによって空気のヴァイブレーションとしてキャッチしているだけだから」と理由づけるが、人間も耳というレセプターによって空気のヴァイブレーションをキャッチできた(可聴帯域)ものを「音」と呼んでいるわけだが、では何故「音」と「音楽」という言葉が分かれているのか、全く説明できない。
さらに「音楽」というのは、その土地固有の文化の上に成り立つものであるため、「音楽」という日本語が日本語以外を母語として持つ俳優によって発話される時、それは果たして我々が思っている(思い込んでいる)「音楽」を指しているのか、という点においても微妙な齟齬を感じ、観客は『予定調和』ではいられない不安定さの中に置かれる。

岡田はさらに、日本人の、というか日本文化における「言葉の過剰さ」も詳らかにする(それは主に、ロボットやマシンによって開陳される)。

ヒト型ロボットのヨシノガリさんは、やたらと「~させていただく」という言葉を使う(そのヨシノガリさんが、自身の任務に「やりがい」を求めるというのも、日本文化の揶揄である)。
コーヒーメーカーは、コーヒーを抽出する度に『ホットコーヒーの熱さはやけどの原因となる恐れがありますので、ご注意ください』と忠告する。
さらに圧巻なのが、<サザレイシさん>が出現した際に使われる「狂暴度レベルチェッカー」なるマシンだ。

「非接触式生命体狂暴度レベルチェッカーが起動しました。狂暴度レベルチェックを行いたい生命体に、ターゲティングを行ってください。ターゲティングが終わりましたらシャープを……」
「狂暴度レベルチェックを行いたい生命体は、現在ターゲティングされている生命体でよろしいでしょうか。よろしければシャープ……」
「ターゲティングされた生命体のレベルチェックを開始します。ターゲティングされた生命体の狂暴度レベルチェックの結果は、狂暴度レベル3.人間と同程度の狂暴度レベルである、です。得体の知れない生命体どうしの不用意な接触は、思わぬトラブルの原因となりますので……」
「以上で、ターゲティングされた生命体の狂暴度レベルチェックを終了します。他に、狂暴度レベルチェックを行いたい生命体がいる場合はシャープを、チェック作業を中止したい場合は米印……」
「以上で、生命体狂暴度レベルチェックを終了します。続けて、生命体知性レベルチェックを行いますか?生命体知性レベルチェ……」
「知性レベルのあまりにもかけ離れた生命体同士の不用意な接触は、思わぬトラブルの原因となりますので……」
「ご利用、ありがとうございました。またの……」

音声ガイドの最後が「……」なのは、ガイドの途中でオニヅカ隊員が「#」または「※」ボタンを押しているからだ。
このシーンは、眼前の得体の知れない生命体が狂暴かどうか知らなければならない緊急事態を想定して作られているはずのマシンの過剰過ぎる言葉が可笑しさを誘う(戯曲レベルでも可笑しさが伝わる)のだが、ここでは「日本語が発話される必然性の過剰さ(或いは、「お・も・て・な・し」の過剰な先鋭化と言ってもいいかもしれない)を問題にしている。

つまり本作は、「物語」ではなく、「舞台で話されている<日本語それ自体>」を問うているのであるが、そもそも宇宙船イン・ビトゥイーン号の目的は何か?

「はい。政府の、現在の、長期の視野での最大の懸案のひとつが、わたしたちのこの言葉。この言葉の衰退が、実に著しい。これをなんとか食いとめたい。あわよくば、盛り返したい。そのために、異次元の対策、文部科学省主導のプロジェクト、地球外知的生命体を探索する。そしてその地球外知的生命体にわたしたちのこの言葉を習得させる(略)」

このことがまさに「言葉がアイデンティティー」であることの証左になるわけだが、だからつまり、戦前の日本が植民地の人々に対して日本語を習得することを強要したのは、言葉が通じる/通じないの問題ではなく、「日本人としてのアイデンティティー」を持たせることにあった、ということに通じる。

この宇宙船イン・ビトゥイーン号の任務とともに、4人の隊員がイン・ビトゥイーン号の中にある専用のポッドに『仰向けに収められている』ことが明かされる。

低い温度に、極端に代謝を落とした状態に、保たれて、長い、長い、眠りについているのだ。
そして、その状態で、夢を見ているのだ。
課せられたミッションが果たされるそのときを、こんなふうに夢見ているのだ。

これらの前提と本作の配役の意図を考えたとき、ひとつの「想定」が朧げに見えてくる。
『言葉の衰退が、実に著しい』とは「多言語と交わることによって"純潔"が保たれなくなった」ことを示唆しており、4人の隊員はそれを体現しているのではないか(さらに、だからこそ「ネイティブ」に扱えるのが、ロボットやマシンだけだとも言える。それらはプログラムされたようにしか話せない)。
だから隊員たちは地球外知的生命体だけでなく「他者そのもの」と直接接触することを禁じられているのではないか。

『これをなんとか食いとめたい。あわよくば、盛り返したい』と考えているのが文部科学省という「政府機関」であることから、「美しい国」という言葉を連想してしまうのは、私の過剰反応だろうか?

メモ

舞台『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』(京都国際舞台芸術祭 2023)
2023年10月1日 マチネ。@ロームシアター京都 ノースホール

本文最後の「想定」により、最後のヨシノガリさんの提案は、物語の結末としてとても理に適っているのではないか、と思っている。

朝日新聞2023年9月29日付朝刊に掲載された「文芸時評」において、「新潮」の本作戯曲が採り上げられている。筆者の古川日出男氏は、こう評している。

岡田利規の「宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓」(「新潮」10月号)が面白すぎる。宇宙の音楽をどう定義するかとの問いや、地球外知的生命体をどう設定するか、私たちのコミュニケーションの軸である言語とは何か、これらの設問(とは言えないのだが)の連打が痛快だ。(略)この戯曲が、ト書き(とは演技等を指示する文章である)に「〇〇するフリをする」という表現を多出させている事実の凄みである。俳優とは演技をする人間だと定義できるのだから、その俳優にさらにフリをすることを求めれば、これは「演技をする人間たちが演技をする」という事態を出現させる。ロボットが人間と同じ行動をとる、や、地球外知的生命体が人間と同じ外見をしている(かもしれない)等は、つまり岡田の刻むト書き一つで正当さを与えられている。

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