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おかえりただいま~映画『こいびとのみつけかた』~

映画『こいびとのみつけかた』(前田弘二監督、2023年。以下、本作)の上映前舞台挨拶で、主人公・杜和トワを演じた倉悠貴が『本作が、観た方の"シェルター"になりますように』というようなことを言った後に始まった本編に戸惑った。

コンビニで働く女性・園子(芋生悠)に片想いをしているトワ(倉)は、毎日植木屋で働きながら、彼女がどんな人か想像している。朝起きてすぐ元気なんじゃないか、一緒に歩いてても置いていかれるんじゃないか、でもその後ろ姿はすごくかわいいんじゃないか。園子を見つけるまでの彼は、恋人を作りたいと思ったことはなかった。考える時間がなくなってしまうからだ。彼は気になる記事をポケットいっぱいに詰め込んで、イギリスのEU離脱やミツバチが絶滅したら人類が滅亡することを気にかけていた。でも今は園子のことで頭がいっぱいだ。話せるようになったら何を話そう、その前にどうやって話しかけよう。
彼がついに思いついたのは、木の葉をコンビニの前から自分がいる場所まで並べて、彼女を誘うことだった。二人は、言葉を交わすようになり、周囲にはよく理解できない会話でその仲を深めていくのだが、園子にはトワにうまく言い出せないことがあり……。

本作パンフレット掲載のあらすじ

戸惑った理由は、トワも園子も、云ってみれば「軽い知的障害者」のような描かれ方をしていて、全てひらがなで表記されたメルヘンチックなタイトルも相まって、1990年代半ばにヒットした一連のドラマにその系譜を持つ、彼/彼女を「イノセント」に仕立てたような物語に見えたからだ(上記あらすじの、最後の段落を読めば察しがつく)。
しかも、それを周囲の人が温かく見守っている雰囲気さえある。

これは困った。
何故なら、私は登場人物たちのようにトワや園子に温かい気持ちで接することができる人間ではないことを自覚しているからだ。しかし、特に現代の風潮において、それを公言することは憚られる。何もしていないのに、いや、何もしていないからこそ、一方的に「悪人」として責められるからだ。

とはいえ実は、自分で思うほど「悪人」ではないのかも、と思ったのは、「パックに入った餃子」がアップになったシーンで、何故だか唐突に泣きそうになったからだ。

そういう気持ちにさせられる映画なのか、はたまた、「イノセント」で「ピュア」な二人が、それを受け容れられない私の「悪い」気持ちを責める映画なのか……
用心しながら物語の成り行きを見守る。

果たして本作は、そのどちらでもなかった。
(表記も含めた)タイトルと主役の二人の性格によって、メルヘンチックな雰囲気で展開する物語は、園子が「つまらない世界」を弾き語るシーンあたりで、その本性を現す。
本作は、上記で「ような描かれ方」「見えた」と太字で表記したとおり、最初から地に足ついた、現実としっかり接続されている物語だった(劇中でトワと園子が糸でぶらさげた模型のUFOを撮影するシーンがあり、撮れた写真にはもちろん糸が映っているのだが、本作も最初は無いように見えた糸が途中で姿を現す)。

私は冒頭の、倉が言った「シェルター」の意味を取り違えていた。
シェルターとは避難場所で間違いないのだが、あくまでも「一時的」に利用するためのもので、つまりは「必要がなくなり次第、出てゆく」のが大前提としてあるのだ。

二人は、(恐らく)「軽い知的障害者」でもなく、「イノセント」でも「ピュア」でもない(念のために断っておくが、「知的障害者」じゃないから「イノセント」「ピュア」ではない、と言っているわけではない。元々それらは無関係だ)。

戦時中とかはもちろんだが、そうではなく、大きな紛争などない国で、ただあくせくと日常生活に追われる我々にだって、自身にとってのシェルターが必要で、それは、実体(身体)を守るだけでなく、内面(心)を守るためにも使われる(べきだ)。
しかし、シェルターはそれ故、必要がなくなれば出てゆかなければならない。シェルターの外にいる人たちは、「いつかは出てくる」と知っているから、温かく見守る。
そして、自身も必要になれば、迷うことなくシェルターに入り、外の人から温かく見守られながら、自身をケアする。
そうやって、シェルターは循環してゆく。
それは、誰にとっても(特に現代を生きる我々には)必要不可欠な場所だ。

自身にとってのシェルターを失ったトワ(恐らく、自身の中の感情によってシェルターが破壊された)に、園子は自身のシェルターを明け渡し、そこを出る(つまり、彼女はシェルターを必要としなくなった)。
トワは、彼女がなぜシェルターを必要としたか、その切実な事情を知ると同時に、彼女が周囲の人からどれだけ温かく見守られていたかも知る。
そんな中で彼は、自分の居るところがシェルターだと気づくと同時に、自身も温かく見守られていることを知る。

シェルターは、あくまでも「一時的な避難場所」である。
だから、「そこから出てゆく」ことが大前提としてある。
人は必要になればそこに入り、必要なくなればそこを必要とする別の人に明け渡す。
そして現実世界に戻れば、温かく見守ってくれていた人に「おかえり」と迎えられ、「ただいま」とその懐に入る。
そして自身もまたシェルターに入っている人を温かく見守り、そこから出てきた人を「おかえり」と迎える。
その人は照れたような、でも晴れ晴れとした表情で返してくれるだろう、「だたいま」と。

だから、ラストで「ただいまおかえり」を歌うトワがとても輝いて見えるのだ。

彼がポケットいっぱいに詰めこんでいた『気になる記事』は、決して現実逃避なんかじゃなく、むしろ、シェルターと現実世界を接続する役割を果たしていたんじゃないか。

映画館というシェルターで本作に癒された私は、地上に上がり、週末の新宿の喧噪に向かって歩き始めた。

メモ

映画『こいびとのみつけかた』
2023年10月28日。@新宿シネマカリテ(上映前、公開記念舞台挨拶あり)

私が「パックに入った餃子」で泣きそうになったのはきっと、餃子がパックというシェルターから出てこられた(シェルターにいる必要性が解消された)安堵・喜びからだったのだろう。

前日、京都で池田亮司のライブを観たあと、2軒ほど飲み屋をハシゴし、12時50分上映回に間に合うようにとんぼ返りしてきたのだが、一体、私は何をやっているのだろうか……

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