映画『渇水』

じゃぁ、俺はどうすればよかったんだ?

映画『渇水』(高橋正弥監督、2023年。以下、本作)で、「用足しに」と言って実家に行ったまま戻ってこない妻と息子に会いにゆき、結局何もできないまま独り長いトンネルの中を車で走っているシーンを観ながら、主人公の岩切(生田斗真)の心の戸惑いが聞こえたような気がした。

岩切は市の水道局員として、料金滞納者に督促し、それでも納付されない場合に水道を止めるという作業を担っている。
料金滞納者たちの開き直りとも逆ギレともとれる口汚い罵りに精神的に参ってしまう同僚もいるが、岩切は滞納者に「規則ですから」と応じ、淡々と職務をこなす。

岩切は言う。
『払わなければ(水道の栓を)閉めるし、払えば開ける。それだけ』

料金滞納者それぞれが抱えている(であろう)、払わない(払えない)理由や事情などはどうでもよく、今、払ってもらえるかもらえないか、それだけだ。
ネグレクトされてきただろうことが示唆される岩切もまた、「今」しかない生き方をしてきた。
親や家庭環境の事情などをおもんぱかったところで、「今」の自分の状況が変わるわけではない、そんな諦念だ。
彼は、これまでの人生を「流されるままに生きてきた」と言う。

そんな岩切は妻(尾野真千子)と息子が戻ってこないという事情を抱えながらも黙々と水道局員の業務をこなす中で、ある母子家庭と出会う。
母親の小出有希(門脇麦)は船乗りだったという夫と別れ、長女の恵子(山崎七海)・次女の久美子(柚穂)を育てている。
有希は体を売って生計を立てているが、思ったように稼げず、電気・ガスは既に止められ、いよいよ水道もという切羽詰まった状況の中、偶然出会った男(篠原篤)に縋りつき、二人の娘を置いて出てゆく。
その姿を偶然見つけた岩切は咎めるが、有希は岩切に「あんたも"水の匂い"がする」と謎めいた捨て台詞を残して去ってゆく。

置いていかれた姉妹は、水道も止められ、生活費もあてがわれなくなって困窮を極める。
ここから先、特に長女の恵子を演じる山崎七海が凄まじい。
母親の事情や職業も察しがついているにも拘わらず、それでも母親を信じようとした結果の裏切りへの絶望、実際に生活が困窮していく中での生への執着と良心との葛藤、無邪気な妹を庇護するための孤独な闘い……観ているこちらが居たたまれなくなるほど、胸を締め付けられる。

その中で恵子にも、"水の匂い"が近づいてきている(だからこそ女子高生が彼女にかける言葉は重い)。
つまり、水は「高いところから低いところに流される」。
自然である限り、それに抗うことはできない(抗えば水が流れなくなって、たちまち"渇水"してしまう)。
だからこそ岩切は「流されるままに生きてきた」、いや、それしかできなかった。
"水の匂い"を纏った彼は、最初から”抗う”という発想がない(逆に、有希は”抗う"ことに希望を託して生きてきた)。
そんな彼が、妻と息子の心を取り戻せなかった現実を前に、流されてきた自身の人生を悔いる。
それが、「長いトンネル」というメタファーで表現されていて、それは私に冒頭に書いた岩切の心の声を届けさせたのだが、ちなみにトンネルの技術が発達する前には、山のなどを「通し」て人馬が通行できるようにしていたのだ。

涓滴岩を穿つ(けんてきいわをうがつ)ということわざがある。
「わずかな水のしずくも、絶えず落ちていれば岩に穴をあける」という言葉だが、岩切は渓谷の滝を見て、「長い年月をかけて、水が岩を削って川になった」、つまり、「水自身が流れを作り変える力を持つ」ことに気づくのである。

その後に彼が起こした「しょっぼいテロ」では川は作れなかったけれど、全く無力だったわけではなく、小さな水溜まりにはなった。
その水溜まりは、岩切だけでなく幼い姉妹の「流れ」を変えるための、確かな希望となった。

(2023年6月4日。@TOHOシネマズ新宿)


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?