「わたしと、私と、ワタシと、」~映画『ただの夏の⽇の話』・『春』・『冬⼦の夏』オムニバス上映

わたしと、私と、ワタシと、」と題し、『ただの夏の⽇の話』・『春』・『冬⼦の夏』という3本の、20~30分程度のショートムービーがオムニバス上映された。

上映最終日のアフタートークに主演の深川⿇⾐とともに登壇した『ただの夏の⽇の話』の松岡芳佳監督が「普段はCMの仕事をしているので、無言のシーンの長回しは嬉しかった」といった発言をしていたが、この3作品はすべて「普段はCMの仕事をしている」人たちが監督を務めている(さらにいえば、3作品の舞台はすべて群馬県である)。


『ただの夏の⽇の話』(松岡芳佳監督、2021年)

まだ昨晩のアルコールが抜け切らない重い⾝体をゆっくりと起こしたとき、彼⼥の記憶はどこにも結びつかなかった。ただわかったこと、それは窓の外に⾒える景⾊がたぶん東京ではないこと。部屋の中に⾒知らぬ男性が寝ていること。さらに⾔うと、” おじさん” な気がするということ。酒に呑まれ記憶を無くし、陽⽉(深川⿇⾐)はなぜか「桐⽣」に来てしまっていた。どこのだれかも知らない” おじさん” (古舘寛治)と。そんな、⾒知らぬ場所で⾒知らぬ⼈と過ごした、“ただの” 夏の⽇の話。

「わたしと、私と、ワタシと、」公式サイトより

冒頭から私は笑っていた。正確にいえば「笑うしかなかった」。
何故なら、その日私は二日酔い(前日の「A.R.E.」が原因)だったし、さすがに見知らぬ異性といたことはないにしろ、「ここ、どこ?」という状況を経験したことは数えきれないほどだ。
それに、冒頭の陽⽉ひづきの顔が異様にリアルだったことも一因である(アフタートークに登壇した深川⿇⾐は「本当に寝起きの状態のまま現場に来た」と発言していた)。

物語はしかし、「新宿から群馬県の山奥の旅館まで、見知らぬ"おじさん"とやってきたのか?」といった「失った記憶を取り戻す」のではなく、「昨日の続きの今日」という感じで、ある意味での「ロードムービー」的展開となる。

その中で私の笑いはいつしか微笑ほほえみになっていた。
物語は終始、変な"おじさん"の我儘(見るからに怪しいのに何だか気を許してしまうというのは古舘寛治の凄さだ)に陽⽉が振り回される展開なのだが、その中で、何となく昨夜の2人の展開が想像できて、不思議と2人が旅館にいた状況が納得できてしまったからだ。

さらに、2人が駅で別れて終わりを迎えるかに思われた「ロードムービー」は、突如、ある種の「ファンタジー」に変貌を遂げる。

大きな喜びや希望もない代わりに、大きな悲しみや絶望もない、そんな平凡な夏のある日、「奇跡的な確率」によって「お酒で記憶を無くして遠く離れた群馬県の旅館に"おじさん"といる」という逸脱が起こる。
しかし、それだって日常に戻れば『ただの夏の日の話』でしかなくなる。でも、それはそれまでの「ただの夏の日」ではない。少し変わった「ただの夏の日」になる。
暑い夏の日、日常の仕事をこなす陽⽉を観て、私は勝手に、「お酒」による祝福を受けた気になった。


『春』(⼤森歩監督、2018年)

認知症のジィちゃんと美⼤⽣の孫、2⼈で暮らす1年間を描いた作品。⼤⼈になるアミ(古川琴⾳とは反対に、認知症が進み⼦供返りしていくジィちゃん(花王おさむ。イライラを募らせるアミは、描きたいものが描けず、制作や進路にも⾃信を失っていくが、ある⽇、初めて聞くジィちゃんの話に気持ちが動かされ……。

「わたしと、私と、ワタシと、」公式サイトより

この映画については、以前の拙稿に詳しいが、一点だけ。
この映画が「わたしと、私と、ワタシと、」というタイトルの下に置かれることにより、じいちゃんにとって「オレ(私)」を失うことの絶望がより際だつように思った。
それは単純に私が初見から2歳年を取ったからかもしれないが。



『冬⼦の夏』(⾦川慎⼀郎監督、2023年)

⾼校最後の夏。進路を決められないまま、ダラダラと過ごす主⼈公・冬⼦(豊嶋花)。そして唯⼀の理解者である親友・ノエル(⻑澤樹)。進学するのか、しないのか。この街を出るのか、出ないのか。騒がしい周囲に反するように、あえてのらりくらりと⽇々を送る⼆⼈だったが、⾏く末を定めつつあるノエルの様⼦に、苛⽴ちや焦りを募らせる冬⼦。⾏き着いた満開のひまわり畑で、⼆⼈は⼤きな岐路を迎えるー。

「わたしと、私と、ワタシと、」公式サイトより

こういった思春期の女子の不安定さをポップ(というかパンク)に見せる映画は結構あって、私はこの映画を観ながら、映画『そうして私たちはプールに金魚を、』(長久まこと監督、2017年)を思い出していた(これは中学生の話だが)。
と同時に、男子を主人公にしたこの類の映画は(自分の経験の中だけで云えば)見かけないなぁ、とも思っていた。

それはともかく、この映画は、冬子はもちろん、ノエルも「冬」を想起させる名前で、その彼女たちが「夏休み」を境に変わっていくというある種の倒錯が秀逸だ。
この倒錯は、物語全体で起きていて、最終的に冬子とノエルの存在が倒錯していくことになる。

彼女たちは「ニコイチ」で、一人の人格が分裂したように描かれ、物語が進むにつれ本当に分裂してゆき、最終的に統合(というよりは淘汰)に至る。

それは、定期的に挿入される『冬子の夏休み』という「ジングル」のようなものが象徴している。
夏休みの始め、つまり物語の序盤、『冬子の夏休み』は2人のユニゾンだった。それが、ノエルが『⾏く末を定めつつある』状況に至ったところで、2人の声はずれてゆき、最終的に声は1人になる。

これは恐らく、冬子とノエルが決別したのではなく、上述したように1人の人格として統合されたのだろう。いや、統合ではなく、淘汰だ。

どちらが淘汰されたのだろうか?
この映画はその答えを示さない(というか、そもそも統合・淘汰としても描かれてはいない)が、ヒントは提示されている。
美術室で真面目に絵を描くノエルと対照的に、枯れてしまったひまわり畑に留まり続ける冬子。
ようやくその場から歩き始めた冬子のシーンで、時折彼女の後を巨大なライトを持ったスタッフをはじめ、大勢の(大人の)スタッフがぞろぞろ付いてゆく映像が挿入される。
その映像では曇り空で薄暗い。しかし、冬子が歩くシーンは(ライトが当たっているため)明るく、コントラストもはっきりしている。
つまり、冬子は「虚構」であり、だから、最終的に冬子とノエルの存在に倒錯が起こる。
これはノエルが大人になるために「子どもっぽい心の中の相棒」を淘汰する、「通過儀礼イニシエーション」の物語だ。

メモ

「わたしと、私と、ワタシと、」
2023年9月15日。@K's cinema

上映最終日。
当初、公式サイトでは松本監督と金川監督のアフタートークが告知されていた。大森監督は、以前『春』の上映時にUPLINK吉祥寺でのアフタートークで拝見していたので、これで3作の監督コンプリートだと思ってこの日のチケットを取ったのだが、いつの間にか金川監督ではなく、深川麻衣さんが登壇することになっていた。
そのせいかどうかはわからないが(大森監督によると「リピーターの方もいらっしゃる」とのことだったので、この映画の企画自体が人気だったのかもしれない。また、上映最終日ということもあるだろう)、満席だった。

上述したように『勝手に、「お酒」による祝福を受けた気になった』私は、アフタートーク終了後、新宿から京橋へ移動して、お酒を飲んでいたのだった。
とはいえ、映画のことが頭にあったおかげで、終電ではあったが、記憶も無くさず、ちゃんと自宅に辿り着いた。



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