舞台『シラの恋文』を観て思った取り留めのないこと…(感想に非ず)
舞台『シラの恋文』(北村想作、寺十吾演出。以下、本作)は、「物語の輪廻転生」を描いているのではないか。
「物語」について現代の我々は、始まりから終わりまで、或いは始まりと終わりが繋がって円環であろうと、いずれにせよ「一本の線で構成される」と思っている(というか、そうでない場合は「難しい・わからない」と即座に低評価が付けられる)。
しかし、一見そう思える物語であっても、いや、物語だけでなく世界中のあらゆるモノは、様々な線が交わっているのではないか。
上記「ものがたり」にもあるように、本作は輪廻を描いているが、一般にイメージするような「生まれ変わり」の物語ではない。
本作において「輪廻」は、「池に石を投げると同心円の波紋が広がること」であり、投げ入れる石が多いと、それらから生まれた波紋が様々に交わり別の波が生まれることが「輪廻転生」であると説明される。
本作も同様、様々な「石」からできた「波紋(輪廻)」が複雑に交わることによって「輪廻転生」したものだ。
終演後、年配のご夫婦らしき人が「一般人には難しいなあ」と漏らしていたが、確かに難しいが、私は観劇しながら取り留めもなく、こんなことを思っていた。
本作は大きく「輪廻(転生)」と「恋文の代筆」とに分けられ、前者は「世界観」、後者が「物語」ということになるのではないか。
順序は逆になるが、後者から説明すると、「物語」のベースはフランスの戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』(エドモン・ロスタン作、1897年初演)で、主人公の志羅は、その名前どおり「シラノ」が投影されている(顛末はクリスチャンっぽいが)。
さらにそこに、作者の北村が本作パンフレットで語っているとおり、『主人公の志羅は(略)『魔の山』(引用者註:トーマス・マンによる長編小説)の主人公ハンス・カストルプと僕自身を投影した部分が多い』という「波紋」が交わっている。
ヒロインの小夜は『シラノ~』のロクサーヌがベースで、志羅が(「シラノ」を投影してるが故に)剣豪であることから北村が思い出した、自身が子どもの頃に見た少女剣士のテレビ番組という「波紋」が交わっている(本作パンフレットで、北村自身が『(その少女剣士が)好きだったんですよ』と告白しており、だから上記した志羅について『僕自身を投影した』というのは、ここに係る)。
その人物たちの物語がどこで展開するかが「輪廻(転生)=世界観」であり、「輪廻」に交わるのが「量子論」となる。
だから、この辺りの概念と用語が『一般人には難しいなあ』となるのだが、ここで私は別のことを思っていた。
理論物理学者カルロ・ロヴェッリが著した『世界は「関係」でできている 美しくも過激な量子論』(冨永 星訳、NHK出版、2021年日本刊)で、彼は量子論を考える一つの材料としてナーガールジュナ(龍樹)という2世紀に生まれたインド仏教の僧の教えを引いている。
『色即是空、空即是色』
本作で万歳も落語調でそう語る(ただし、ここでの「色」は『宇宙に存在するすべての形ある物質や現象』という意味だが、万歳は意図的に「色恋」のニュアンスを含ませていることに留意)。
それはさておき、つまり、『わたしたちは常に他者から、つまり自分とは異なるものから学ぶ』わけで、だから、「物語」それ自体も『自律的な要素が存在しない』のである。
本作の「物語」は、『シラノ・ド・ベルジュラック』と北村の思い出(初恋)、輪廻転生の教え、量子力学やアインシュタインとフロイトの往復書簡、COVID-19、結核、戦争・紛争……それら「石」の「波紋」と交わって「輪廻転生」したものだ。
それら「石」もまた、過去に様々な「波紋」と交わって「輪廻転生」(或いは「変異」)を繰り返してきた。
世界中の「物語」は「輪廻」によって転生し、それがまた「波紋」となり別の「輪廻転生」に寄与する。
「物語」は「輪廻転生」し続ける。
従来のラブロマンスとしての「輪廻転生」とは違うラストシーンを観ながら、どう解釈するか捉え損ねた。
しかし、あらゆる「物語」が「輪廻転生」するのであれば、本作もまた「輪廻転生」するのであって、それを描いた北村がこのラストシーンに希望を込めなかったはずがない。そう確信した。
メモ
舞台『シラの恋文』
2024年1月8日 マチネ。@日本青年館ホール
本作、志羅の祖父の形見というテンガロンハットが「人に本心を喋らせる」不思議な力を持つ設定で、その力で所謂「説明セリフ」的なモノローグが各登場人物から語られる。
それを観ながら、モノローグを語らせているのはテンガロンハットではなく、志羅を演じる草彅剛氏本人の力なのではないかと思った。
彼独特の、感情が籠らない(読み取れない)棒読み的セリフ回しを批判的に見る人もいて、その言い分は理解できるが、どことなく承服しかねる理由が何となくわかった気がした。
あのセリフ回しが、相手の感情を反射させるというか投影させるというか……上手く説明できないのだが、たとえは違うかもしれないが「サンリオのキティちゃんに口がない理由」と同じなのではないか、そう思ったのである。
恐らくそれはそのとおりで、草彅氏本人が、こう語っている。
劇中でも、少女剣士の物語で「"相手の力を反射させる力"と"相手の戦意を喪失させる力"が同時に行使されたとき、勝負はどうなるか」という、一種の思考実験のような会話が交わされるが、つまり、草彅氏本人が目指す(そして、出来る)芝居が、その両方を兼ね備えているということかもしれない。
その力が、志羅と初めて目を合わせた小夜をフリーズさせたのかも……
明星真由美さんは、少しの出番しかないのに強烈なインパクトで、彼女のセリフは私の涙腺を激しく刺激した。
私も危うく「狸」に騙されるところだった。
開演前、トイレから出てきたら工藤公康氏がご家族らしき方と一緒に立ってらした。
「息子さんでも出てらっしゃるのか」と半ば冗談で思っていたら、本当にそうだった(相変わらず勉強不足)。
本番でも、序盤に湯之助役の段田安則氏から「お父さん来てる」とイジられていた。
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