恋愛物語入門としての「古典」の凄み~映画『こん、こん。』~

映画『こん、こん。』(横尾初喜監督、2023年。以下、本作)は、映画鑑賞に興味はあるが、経験不足などに由来する気後れで二の足を踏んでいる若い人にお薦めの作品である。

現代では、観客を飽きさせないために、とにかく「仕掛け」で攻めようとする映画も少なくない(SNSのショートムービーに慣れた若者世代向けの作品は、特にこの傾向が過剰な方向に加速しているように見える)。
しかし、そんな小手先のテクニックに頼らずとも、そのベースとなる、いわゆる「古典」と呼ぶべき物語を、きっちり丁寧に踏まえれば、100分近く飽きさせず、しかもちゃんと感動できる物語になる。
そのことを本作が証明している。

「古典」とされる物語構造は、「物語」というものが生まれた時から長い歴史の中の試行錯誤によって確立され、支持されてきたもので、現在の物語はそれら種々の「古典」に「仕掛け」を施しているのが、ほとんどだ(全部とは言わない)。
それらの「仕掛け」を剥がしていけば、最後に残るのは「基本的な物語構造」であり、それが「古典」である。

前置きが長くなったが、ここで本作の公式サイトに掲載されているあらすじを引用しておく(俳優名は引用者が追記)。

何事も「フツー」な毎日を送る大学生・堀内賢星(遠藤健慎)。ある日突然、同級生の七瀬宇海(塩田みう)と衝撃的な出会いを果たす。「好き」がたくさんある宇海との会話はどこか噛み合わず、自分と真逆な彼女に戸惑うも、不思議な魅力に惹かれていく。
謎の踊りと染め物のTシャツ。苦手な激辛カレー。興味のなかったカメラ。部屋に飾られた大小の手形。空港が見える秘密の裏山。
賢星は、宇海と来るはずだった海岸を見つめ、「特別」な毎日を思い返す。愛に溢れた彼女の抱えるものとはなんだったのか?
豪快な宇海と、合理的な賢星。クスッと笑えて、すれ違いに切なくなる。長崎を舞台に描く、対極的なふたりの「恋」の物語。

公式サイトより

本作に「謎」は、ほとんど存在しない。
結末は冒頭で示唆され、回想形式で物語が進み、全ての状況が明かされた後の冒頭に戻ってくる。
回想は、主人公とヒロインが衝撃的な出会いを果たし、付き合い、嫉妬や他者の「悪意なき企み」から来る誤解などにさいなまれた主人公の暴走的過ちが原因で恋愛的離別を経た後、(さらに)決定的な別れがあり、喪失そうしつの中に放り込まれた主人公がヒロインの本心を知ってゆるされる。

本作の主人公は男性だが、もちろん「古典」ゆえ、男女が入れ替わってもそっくり成立する。

本作が飽きない理由は、今どきの映画のような「ハラハラ・ドキドキ」「謎解き」といった「スリリングな期待感」ではなく、「安心できる期待感」にある。
物語の展開は既に読めていて、映画館の座席にゆったり座っているだけで、もしかしたら自分にも起こるかもしれないと思わせる心地良い世界堪能たんのうさせてくれる。
程よく「ハラハラ・ドキドキ・キュンキュン」させてくれた果てには、必ず「感動・落涙」が待っている。
だから観客は、最後の「感動・落涙」を期待しながら、物語に身を委ねているだけでいい。
「安心できる期待感」とはそういう意味で、それはディズニーランドのアトラクションにも通じている。

本作が「安心できる期待感」で観ることができるのは、もちろん冒頭に書いたように「古典」を『きっちり丁寧に踏まえ』ているからだが、そのために「極力嘘をつかない」という徹底したポリシーが貫かれているからでもある。

そのポリシーは、監督の出身地である長崎県佐世保市を舞台にした本作の全ての撮影が現地で行われ、さらに『大規模に県民オーディションを実施し、10代~60代の多くの県民キャストが参加している』(公式サイト)ことから伝わってくる。
この徹底したポリシーがあるからこそ、観客は余計なことを考えずに物語に身を委ねていられるのである。

ゆえに本作は、冒頭に書いたとおり『映画鑑賞に興味はあるが、経験不足などに由来する気後れで二の足を踏んでいる若い人にお薦め』なのである……ということを書いてきたのだが、さらに言えば、本作は「ほとんどがない」と同時に、「ほとんどがない」ことも理由に加えて良いだろう。
もちろん、イチャモン的に、例えば「主人公がヒロインを誤解するエピソード」とか「主人公とヒロインが別れる原因」とか「主人公とヒロインの決定的な別れ」とかを、「何でそうなるの?」と突っ込むことはできる。
しかし、それらは全て物語構造が「古典」となってきた中で「お約束」として定型化されたものだ。

唯一の「謎」を挙げるとしたら、「ヒロインが主人公を好きになった理由」かもしれない。
しかしそれとて、53歳にもなってもこの「若者の古典的恋愛物語」に泣いてしまった(だから、それが「古典」の凄みだ!)オヤジには、「謎」ではない。
何故なら、「恋は"する”ものではなく、"落ちる"もの」という、これも「古典的」な格言を知っているから。

メモ

映画『こん、こん。』
2023年10月1日。@UPLINK京都

さんざん「古典」と書いたが、正確には「21世紀アップデート版」と呼ぶべきものだ。
中でも「あまねく個人が電話を携帯している」というのは、大きなアップデートだろう。
それは、「確実に自分宛ての電話だと知っている(それ以外はあり得ない)状況なのに、あえて出ない」「(電話を携帯している)相手が確実に出るはずなのに、出てくれない」「既読が付くのに返信がない(逆に、既読を付けたのにあえて返信しない」)など、「互いに直接つながり合える状況」だと知っているからこそ、「つながらない」故の不安・不信・孤独や、「あえてつながらない」といった虚勢・罪悪感が、痛ましい方向に過剰化されていくことでしか、恋愛物語を成立できなくなっている、ことに通じている。

さらには、最後の「種明かし」が、そこにいない人物によって主人公など登場人物と観客に「直接」説明できてしまう、ということも21世紀ならではないか。
これまでも、日記や手紙、留守電、或いはビデオ映像での「本人による種明かし」はさんざん行われてきたが、それらはほぼ全て本人が相手に「伝える」意志を持っていた(ビデオ映像だって、今のようにスマホで日常的に撮れるわけではなかったので、ビデオカメラを回すためにはそれなりの意図が必要だった)。

それでさんざんボロ泣きされられてきた私からすると、「本人による種明かし」は「もう完全に卑怯」というレベルである。
これをやられたら、それまでがどんな物語だろうが、ヒロインに対して過剰以上の想いを抱かずにはいられないし、ヒロインの余韻が残り過ぎて、映画館を出た後の行動に大きな支障が出てしまうことは必至だからだ。

実は、本作を居住地である東京ではなく京都で観たのは、ロームシアター京都での『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』を観劇した後だった(芝居は昼公演だったし、毎月1日は全国の映画館が割引になるから、この日を逃すのはもったいない)。
せっかくの京都だから、本作を観た後にどこかで飲もうと思っていたのだが、物語が「古典」だと気づいたあたりから、結末が来るのが怖くなった。
本稿は、その理由を延々と綴っているに過ぎない。
(実際、映画館から出た後、気持ちを持て余して、飲み屋に入るまでに暫くのクーリングタイムを要した)


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