ndjc:若手映画作家育成プロジェクト2020

2021年2月27日~3月4日まで、有楽町の「角川シネマ」で、「ndjc:若手映画作家育成プロジェクト2020」の作品3作が上映されていたので、観てきた。
私はこのような上映会は初めてで、コロナ禍による緊急事態宣言を受けて、行きつけの飲み屋が軒並み「時短営業」ではなく「休業」を選択してしまい、時間が空いたので観てみることにした、という具合である。

そんなわけで、「ndjc」自体知らなかったのだが、劇場で配布された資料によると…

国と映画の関わりあいとして、諸外国では映画振興機関が創設され、映画作家の育成という面で様々な活動が展開されています。
近年、日本映画の復興が伝えられるなか、日本でも文化庁による長編映画監督の育成への取り組みが進められています。VIPO(映像産業振興機構)は映像産業というくくりで業態を超えて設立され、その特性を生かした育成支援として、2006年度より文化庁委託事業『若手映画育成プロジェクト』を企画しています。このプロジェクトでは、在野の優れた若手映画作家の発掘と育成を行い、本格的な映像制作技術と作家性を磨くために必要な知識や技術を継承するためのワークショップや制作実地研修を実施すると同時に、新たな才能の発掘を目的として作品発表の場を提供することで若手映画作家を支援し、日本映画の活性化を目指しています。2006年度から今年度まで、合計73名の若手映画作家が、このプロジェクトに参加して最終課題である短編映画を完成させました。

で、過去参加した73名のうち、たとえば、こんな方々が商業映画デビューしたそう(上段:監督名、ndjc作品名・年度。下段:商業映画監督作品名・公開年)。

中野量太監督:「琥珀色のキラキラ」(ndjc2008)
「チチを撮りに」(2013)、「湯を沸かすほどの熱い愛」(2016)、「長いお別れ」(2019)、「浅田家!」(2020)

岨手(そで)由貴子監督:「アンダーフェア・アフェア」(ndjc2009)
「グッド・ストライプス」(2015)、「あのこは貴族」(2021)

ふくだももこ監督:「父の結婚」(ndjc2015)
「おいしい家族」(2019)、「君が世界のはじまり」(2020)

と、私自身、劇場やテレビで観た作品も多く、ndjc作品も映画のイベントやテレビでの監督特集などで観たことがあったりすることがわかった(ちなみに、リストには上記の3人を含め、30人の名前が載っている)。

「長いお別れ」「グッド・ストライプス」「アンダーフェア・アフェア」「おいしい家族」「君が世界のはじまり」は、「TAMA映画祭」で観た(ちなみに、「グッド・ストライプス」は「所沢ミューズシネマセレクション」でも、「君が世界のはじまり」は劇場初日オンライン舞台挨拶付でも観た)。
「チチを撮りに」は家飲みしながら観ていて、「お姉ちゃんが、お父さんを万引した」というセリフがツボにはまってしまって、酒をぶちまけてしまった記憶がある。

こうしてみると、(少なくとも私にとっては)「文化庁も、いい仕事するじゃん」と考えても良いのかもしれない。

資料を見ながらそんなことを考え、上映を楽しみに待った。


ndjc2020の私的感想

最初に断っておくが、私は普段、映画や演劇を観る際に「批評」を念頭に置くことはない。純粋に楽しむために観ているのだから、余計な事は考えず、作品に身を委ねれば良いだけ、と考えている。
なので、あまりネガティブなことは考えない方なのだが、ちょっと今回は勝手が違って戸惑った。
まぁ、「(こういった形式で)若手監督の作品を観た経験がない」ことが理由だと思うので、本稿は「批評」ではなく「ただの素人の感想」と捉えていただければ幸いである。

ndjc2020の作品(各30分)は以下の3つ(上映順。以降、作品名ではなく番号で記す)。

①「毎日爆裂クッキング」(植木咲楽監督)
②「醒めてまぼろし」(木村緩菜監督)
③「窓たち」(志萱大輔監督)


何故か女性が主役で、男はみんなダメ男

年度によってテーマがあるのかもしれないが、3作品とも主役が女性。
相手となる男性は、揃いも揃って、ダメ男。

①は、ストレスで味覚障害になったフードライターの女性。そのストレスの原因が、「今まさに、私、パワハラしてます!」と観客にアピール全開の男性上司。

②の主人公は女子高生だが、付き合ってる(少なくとも体の関係があり、主人公は彼氏のことが好き)彼氏が、別の女性を家に招き入れるのを目撃。大人になって就職した先で不倫関係になった先輩社員は「妻と不仲で離婚を考えている」と言っていたのに、「奥さんと子どもと3人で仲良く歩いていた」という別の同僚の話で嘘が発覚。

③は、彼女がいる男に「妊娠した」と嘘をついて横取りした(と思われる)女性が主人公。男は、彼女がいながらも言い寄ってきた(と思われる)主人公と関係を持つばかりか、バイト先の宅配ピザ屋で正社員になりたいと申し入れたら「正社員になってすぐに辞められても困るんだよ」と言われるような中年。しかも、主人公の同僚女性の夫は、風俗に行ったことが発覚し、土下座させられている。

私が男だから、気になるのかもしれない。
とはいえ、こうも立て続けに「記号のような類型的ダメ男」と、「それに翻弄される女性主人公」を見せられると、かなりキツイ。


「物語世界」と「なろう系」

別に「男女の関係性」を問題にしたいわけではない。
問題なのは、主人公が「生きづらい」と感じる「世界」が、あまりに「類型的」で、何故か「世界に問題がない」ことだ。

①は、主人公は出版社の社員で、極端なパワハラを受けているが、それによって会社が影響を受けるわけでもなく、平穏である。

②は、若干崩壊気味の家庭だが、両親は揃っており、虐待もない。

③は、生活力がなさそうな男と同棲しているが、DVを受けることもなく(反対にものすごく優しい)、自身は(退職者を笑顔と拍手で送り出すような良い雰囲気の)美容室で働いている。

さらに問題なのは、主人公たちが「その世界を壊そうと試みるフリはするが、本気で壊そうとは考えていない、というか、そもそも壊せないと思っている」ことだ。

たとえば①だと、主人公が敬愛する、あこがれのエッセイストと関わりたい夢を世界に留まる必然性としていたのかもしれないが、それをパワハラ上司が奪った。
だから、主人公がその後とるべき行動は、静かに辞表を書いて会社(作品世界)を出ることだったはずで、バットを振り回して暴れることではなかった。
暴れて「世界を壊すフリ」をしただけで、主人公はこの世界を手放さない。
最後に救いの手を差し伸べる女性も、味覚障害を直そうとしてくれるだけで、世界を壊すよう主人公をけしかけたりしない。
で、その結果、主人公が作品世界で生きる希望を得たことが示唆され、映画は終わる。

③は、「妊娠は嘘だった」と告白した主人公と相手の男が並んで信号待ちをしているラストシーン。
2人の選択に含みを持たせる意図なのかもしれないが、観客は「放り出された」と戸惑うことになる。
何故なら「告白」によって、それまで観ていた「主人公がどうするか」という物語が破棄され、「主人公はどうなるのか」という結末にすり替わってしまうからだ。
主人公には「別れる理由」があるが、男が「別れない」といえばそれを拒むことはできない。
そもそも、作品世界は「主人公ではなく、男が作っていた」のだから、主人公の「世界は壊れない」のではなく「最初から主人公には壊す権利がなかった」。
「告白」は一見①と同じ「世界を壊すフリ」と見せかけて、実は「結末のどんでん返しの振り」になっている。

②は、元々世界が円環で閉じている。

つまり、物語は、『類型的な世界の中で、主人公が感じる「生きづらさ」は個人の問題として収斂され、「世界は変わらない」という諦観を持った主人公が、ひたすら耐え続ける』構造となっている。
ある作品がそうなら別に気にならないが、3作続けてだと、これもやはりキツイ。

何故、揃いも揃って同じ傾向になるのかと考えていて、ふと、「なろう系小説」を思い出した。

AERAの2021年2月19日配信の「「なろう系小説」が映し出す日本の空気 人生「何も起きない」諦めに近い価値観が反映」という記事によると、『小説投稿サイト「小説家になろう」に投稿される小説(「なろう系」と呼ばれる)が「魔世界転生もの」など、世界観が画一的』なのだそうだ。

KADOKAWA MF文庫J編集部副編集長で、リゼロを担当する池本昌仁さんは、その背景を「なろう系の世界観は、平成・令和の時代劇なんです」と分析する。
「フィクションって、最初から全部説明するのはむちゃくちゃ難しいから何らかのフォーマットが必要。たとえば時代劇は多くの人が『お上がいて、岡っ引きがいて』みたいな設定を把握しているから成立する」

さらに、物語の内容や結末について、別の編集者がこう証言している。

既存の小説は、少年少女が大冒険するとか、夢のある作品じゃなきゃだめだという思い込みがあった。でも、なろう系小説は、商業的な小説家ではない人たちが、人生をそのまま反映させている。異世界というフィクションの中であっても『自分の生活は5年後、10年後も変わらない、すごいことなんて何も起きない』という諦めにも近い価値観が色濃く表れている

もしかして、映画界も「なろう系」になろうとしているのかも…


「説明的な画と音」、監督と作品の距離感

監督が作品世界を、自身の中からでなく、「一般的なイメージ」から借用した結果、監督自身が世界観に自信を持てず、過剰な「画」と「音」で説明しようとする。

①では、テレビのバラエティー番組やネット記事から借用したパワハラのイメージを、何の吟味もさじ加減もなしに全部ぶちまけていて、もはや、お役所が企業へ配布しそうな「パワハラと認定される行為集DVD」の様相になっている。これだけ手加減なしで見せられると、観客は引く。

②は、逆に説明できないと開き直り、時間と場所を切り貼りコラージュして円環というオチをつけて、「わからないけどセンスあり風」に仕立てて誤魔化している。
(でも、主人公自ら不倫にケリをつけた後の電車で、「一人将棋は負けると自分が死ぬから、負けが見えたところで終わらせないと」という吉田のセリフを想起させるシーンは、センスを感じた)

で、結果、監督自身が作品との距離感を保てなくなり、観客という「客観性」を見失う。

「音」でいえば、①、②どっちかでも「無駄なサラウンド」と思ったのだが、顕著だったのは③。

引きの画面で、手前右側で主人公が炊事をしていて、中央奥にいる男と会話している。この時、全ての音は前面から出ている。
やがて画面は男に寄っていく。
この時、何故か主人公の炊事の音が、右側から出る。
「男に近付いていったのだから、炊事の音が右から聞こえるのは当然」と納得してはいけない。
部屋には主人公と男しかいない(という映画のお約束)。
では、誰が男に近付いていったのか?
つまり、監督はお約束を忘れて、カメラ(= 観客)を映画の中に招き入れてしまったのである。

(追記) 俯瞰で観ていたのに、突然主観になった気がして混乱したのだが、何故そういう気がしたかというと、たぶん音を「効果」ではなく「説明」に使っているからではないか。
映画ではほぼ同じ音量で突然FRONT→RIGHTに移ったように思う。
2人の俯瞰から男に寄っていくのだから、意図としては男を際立たせたいはずで、一般的な演出では炊事の(音像を移動させず)音量を下げることによって観客を男に集中させる「効果」を狙うのではないか。
同じ音量で音像が移動すると、その「効果」は得られず、「男1人の映像になりましたが、主人公は炊事をしていますよ」という「説明」にしかならない。さらに、音像が同じ音量で突然移動することにより、観客の気持ちの流れが断ち切られるので、「気が付くと部屋の中にいた」という感覚になってしまうのでは、と考えてみた。

これ、結局、監督だけが観客の「脳内映画」をそのまま作品化した、ということではないのだろうか。

ものすごく身も蓋もない言い方をすれば、ブラック企業の社員や不倫の泥沼から抜け出せない人の愚痴を聞かされているみたいだ。聞いているこちらからすると、「辞めれば」「別れれば」と最初から答えが出ている話。だが、そう言うと相手は「でも、でも…」と言い訳を始める。でもそれは、できない理由の説明ではなく、単に「自身の脳内悲劇物語(もちろん自分は可哀想なヒロイン)」でしかない、、みたいな。
観客は「愚痴を聞いてくれる友人」でも「カウンセラー」でもないのである。


過去作品を見てみる

このプロジェクトを知らずに勝手なことを書いてきたが、まぁ、予算とかスケジュールとかの縛りやプロジェクト自体の制約とかあるのかもしれないと気がついた。
なので、参考までに、たまたま手元にあった、佐藤快磨(たくま)監督の「壊れ始めてる、ヘイヘイヘイ」(ndjc2015)を見てみたら、主人公が店員にいちゃもんをつけるクレーマーを見つけては彼/彼女らにドロップキックをかます男で、それが縁で付き合い始めた恋人が、主人公に気づかれないように別れを告げて、作品世界から出て行く結末だった(かなり大雑把)。
ちなみに主人公は仲野太賀(作品発表時は太賀)で、佐藤監督は仲野を主役にした「泣く子はいねぇが」(2020年)で、商業映画監督デビューしている。


終わりに

言い訳ではないが、これを書くのに10時間程度掛かっている。
そんなわけで、上映終了後、3人の監督さんがロビーにいらしたのだが、考えがまとまっておらず、話しかけられなかった。
別に話しかけるような間柄でもない(知らなかったし…)のだが、後に名監督になるかもしれない方々だったかと思うと、機会を逃したことが何だか残念な気もする。

勝手なことをツラツラと書いてきたが、何も知らない素人の雑文ということで、笑って流して欲しい(身勝手なお願いで申し訳ない)。

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