斎藤美奈子著『挑発する少女小説』

映画『水深ゼロメートルから』(山下敦弘監督、2024年)は、補習と称して教師から、水を抜いたプールの底に溜まった砂を除去せよ、という途方もない指示を受けた女子高校生たちを通じて、ジェンダーの理不尽さを描いた。
映画の中で主に4人の女子高校生たちはそれと闘っているのだが、思えは、彼女たち、というか映画の中の教師を含め、先人のあらゆる女性たちがそれと闘ってきたはずで、しかも、それはある年齢に達したから、ではなく幼い、少女の頃からの闘いだった。

実際、「人対人」の「実戦」は歴史上、ほとんどの場合において「男」が担ってきて、それはそれで理不尽(自身の実感とは(ほぼ)無関係なものに命を賭けているし)で、思えば、それだってある年齢に達したからではなく、幼い頃からヒーロー戦隊モノや「ジャンプ方式」とも呼ばれる「バトルのインフレ物語」によって、無自覚・無意識に教育されてきたものだ(だから、昭和の少年たちは、地球に何かあれば「聖闘士セイント」(車田正美『聖闘士星矢』)として闘おうと本気で思っていた)。
私自身、幼い頃を振り返り「アホだったなぁ」と思うけれど、そんな(戦うことに無批判であったことを含めた)「男子」の無邪気さに対して、今思えば、当時同世代の「女子」たちは、目に見えない、しかし架空ではない現実と闘っていたのだと、今更ながらに気づいたことも大きく影響している。

書評家の斎藤美奈子は、自著『挑発する少女小説』(河出文庫、2024年。以下、本書)によって、少女たちが「物語=小説」を通じて、如何に「架空ではない現実」の「理不尽」と闘ってきたかを解き明かしていく。

著者は、シュピーリ著『ハイジ』、モンゴメリ著『赤毛のアン』、ワイルダー著『大草原の小さな家』など9作品を「少女小説」と定義づける。

こうした物語の多くは19世紀後半から20世紀前半に書かれ、作者も多くは女性でした。いずれも世界中で大ヒットし、日本では戦後、20世紀の後半に多くの読者を獲得します。日本の読者の多くも少女、すなわち小中学生の女子でした。
このような作品を本書では「少女小説」と呼ぶことにします。

著者によると「少女小説」は文学史的には、『家庭を主な活動の場とし、将来的にも家庭人になることを期待された少女のための』「家庭小説」に属するという。

家庭小説とはつまり、宗教教育や家庭教育を含めて、よき家庭婦人を育てるための良妻賢母の生産装置だったわけです。

つまり子どもたちは、それらを買い与える『大人の陰謀』に乗せられたわけだが……

とはいえ、大人の陰謀にも限界があります。読者である子どもたち自身がおもしろいと思わなければ、それらは生き残れません。
(略)
もともとは大人の陰謀だったとしても、これらは読者である子どもたち自身が自らの手で選び、読み継いできた作品といえます。

だから、生まれながらにして「闘う」ことを運命づけられた「少女」たちは、十分「したたか」だったのだ。

もちろん、少女たちはそんなことを意識して物語を読んでいたわけではないだろう。しかし、無意識下であっても、物語の中にある、或いは主人公たちの中にある「内なる闘い」に共感したのは間違いない。

つまり、読み継がれる名作「少女小説」は、少女たちの「共闘」の証しであり、歴史であった。

大人になった「かつての少女たち」は今、忙しい目の前の生活に追われ、闘う気持ちを失いかけているかもしれない。
そんな女性たちにとって本書は、「かつての自分が何故、この物語に夢中になったか」を思い出させ、さらに、これから生きるための、或いは闘うための、「新たな力」を得るための道しるべとなるだろう。



この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?