江分利満氏の不安

以前の拙稿で、『初桜・初恋』(滋賀・安井酒造場)という日本酒の味を「初恋の味」と称したことがある。
だが日本酒を楽しめる年齢、それもある程度年配の方であれば、「初恋の味」といえば「カルピス」を思い出すのではないか。

カルピスという飲料がある。いま、東京銀座の表通りの喫茶店でカルピスを飲ませる店は、ほとんど、ない。あったとしてもカルピスをオーダーするときは、ちょっと気遅れママを感ずる。何故か。
カルピスは「初恋の味」だからだろうか。それは、ある。

これは1963(昭和38)年に発刊(連載開始は1961年)され直木賞を受賞した、山口瞳著『江分利満えぶりまん氏の優雅な生活』(新潮文庫。以下、本書)の一節である。
タイトルからもわかるとおり、昭和30年代の典型的なサラリーマンである江分利満氏の日常を綴っている短編集(というか、新聞連載でもあり、どちらかというと「江分利満=一般市民」になぞらえたコラム集のようになっている)だが、これによると「カルピス」の歴史は随分古いことがわかる。

カルピスの、つまり「初恋の味」としての全盛時代は、いつ頃だったのだろうか。江分利の生まれた頃、大正の末から昭和の初期にかけて、だったのではあるまいか。昔、一高・三高の定期野球戦があった頃、スタンドに四斗だるを置いて、カルピスを飲み放題に飲ませたという。

著者の山口瞳氏は、元々サントリー(入社当時は寿屋)に勤めるサラリーマンで、コピーライターとして『トリスを飲んでHawaiiへ行こう!』などの名コピーを生み出した人である。

そんな本書の中に「古いタイプ」と題された短編(コラム)がある。

昭和30年代半ば、35歳の江分利が最近の若い社員に対して感じている想いが綴られている。
もちろん、昭和しかも高度成長期の働き方は、今となっては古いどころかNGな部分も多く、全てには同意できない(する必要もない)が、しかし当時、自身が「古いタイプ」だと自覚している江分利の想いは、現在でも通じる普遍的なことも多いのではないかと思う。

立身出世なんか、つまらない。出世なんかしたくない、と口にだしていう社員がいる。どうもこれは一般の風潮らしい。しかし、口にだしていう社員をみると、だいたい出世する能力を欠いているか、そもそもヤル気がないかのどっちかである。学生時代に左翼運動をやっていて、いまのサラリーマン生活は自分の仮の姿である。出世なんか考えてみたこともないという者もいる。しかし、もし10人の労働者の幸福をねがうなら、10人を動かせる地位にまずつくべきではなかろうか。

前半の『口にだしていう社員をみると』のくだりは、いまでも十分同意できるのではないか。

その後に続く「左翼運動」は、今の人にはピンとこないだろうが、同じような"志”は、たとえば「社会貢献」や「持続可能な~」という"言葉"に置き換わったと考えることもできる。
江分利はつまり、「"言葉"だけ立派で、それができない、というか、やらない理由を"今の生活は仮の姿"(現代で言うなら、"自分一人では無力"、"目立つと浮いちゃうから”とか)と言い訳しているだけではないか。まずは社員で実践すればいいじゃないか」と喝破しているのではないか。

立身出世のために重役にオベッカをつかうなんてまっぴらだという人がある。しかし、オベッカをつかうことはそんなにたやすいことではない。へたなオベッカではかえって自分の地位をあやうくする。うまいオベッカを使うには、業界の動きや社内事情や社会情勢に通じていなくてはいけない。それは社員にとって勉強以外のものではない。勉強する社員が出世するのは当然のことである、と江分利は思う。

「オベッカ」そのものも、現代では(全くではないにせよ)通用しにくいと思うが、だからこそ、成果主義が主流になった現代においては『勉強する社員が出世するのは当然』という意識が、より強くなっているのではないか(もちろん、「社会貢献」「持続可能な~」を実践するために、勉強が必要なことは言うまでもない)。

「古いタイプ」は最後、こう結ばれる。
『江分利のような古い型の人間は社員としてどうなるか。不安である。』

彼は何を不安に思っているのか?

アメリカ式の社員教育や講習会がひんぱんに行われて、朝、顔をあわせてみんな同じ挨拶をするようになるのではないか。同じ顔つきになってゆくのではないか。立身出世は入社と同時にきまってしまうようになるのではないか。仕事をして出世するのではなく相手を蹴落とすような具合になるのではないか。社員の気質を知らないで、噂やデータだけで配置転換が行われるようになるのではないか。社員はますます自己中心的になるのではないか。事務が機械化してヒューマンなつながりが失われてゆくのではないか。

江分利満氏の不安に対し、我々21世紀のサラリーマンは何を考えるだろうか?

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