舞台『ツダマンの世界』

昭和初期から戦後にかけての文豪たちの奇人ぶりを面白おかしく描いている……はずだった舞台『ツダマンの世界』(松尾スズキ作・演出。以下、本作)は、ラスト数分で物語の強烈な本性が露わになり、観客を凍りつかせる。

物語は、ヒット作のない中年小説家・津田万治=ツダマン(阿部サダヲ)の、妻・かず(吉田羊)や弟子の長谷川葉蔵ようぞう(間宮祥太朗)らとの関係を交えた半生を、津田家の女中・オシダホキ(江口のりこ)や縁のある人々からの視点で振り返る構成になっている。

ツダマンと葉蔵の関係は、作・演出の松尾スズキ氏がパンフレットで言及しているように、井伏鱒二と太宰治のそれである。

太宰と井伏の間に、師弟関係を超えた並々ならぬ愛憎みたいなものを感じて。(略)
井伏さんは貧しいし売れてない。そこに生まれついてのエリートである太宰が弟子入りするってドラマチックだなって。井伏さんもそんな太宰を受け入れて、すごい世話を焼いたり、借金を立て替えてあげたりしている。本当は自分が欲しいぐらいだろうに、その関係が、ちょっとマゾヒスティックに見える瞬間があったりして、振り回されることが悦びというか。

本作パンフレット 松尾スズキ氏インタビュー

ただし、津田万治という名前にも表れているように(太宰の本名は島修、井伏の名前は同じ読みで滿壽二と書く)、ツダマンの人物造形は井伏そのものではなく、「昭和初期の文豪の奇行の集合体」といったおもむきである。
逆に葉蔵は、自殺願望があり、やたら手紙を書き、文学賞(本作では「月田川賞」)に執着するところから、明らかに太宰(芥川賞欲しさに選考委員も務める作家・佐藤春夫に手紙を送ったりしている)を意識している。

先にツダマンは「昭和初期の文豪の奇行の集合体」と書いたが、朝日新聞に掲載された松尾氏のインタビュー記事は、こう伝えている。

酒色に溺れる太宰治、谷崎潤一郎と佐藤春夫の細君譲渡問題。「いま考えると非論理的なことが行われていて、批判もされるんだけど、半ば武勇伝気味に語られる部分もあるじゃないですか。マスコミのまな板の上で踊っているのが、演劇的だな」。

朝日新聞2022年10月27日夕刊

この記事で触れられている細君譲渡問題は谷崎が自分の妻を佐藤に譲ろうしたことが発端となっており、その佐藤は元芸術座の女優・川路歌子と同棲していたこともあり、関係性は異なるが何となく、ツダマンが数と結婚する際に、愛人だった小劇場の女優・神林房枝(笠松はる)を葉蔵に押し付けるエピソードを想起させる。

細君譲渡の騒動からもわかるとおり、当時は世間の常識から外れた文豪も多く、その代表例は、「私小説の始まり」ともされる(断定はされていない)有名な『蒲団』の作者・田山花袋だろう。
その「奇人ぶり」について、いとうせいこう×奥泉光+渡部直己『文芸漫談 笑うブンガク入門』(集英社、2005年。以降引用文の太字は原文ママ)を引用する。

奥泉 『蒲団』なんか最高ですよ。(略)やっぱり最後は蒲団のにおいを嗅ぐとこで……。
いとう いちばん大きいオチを知っているだけに、ワクワクしますよね。「そろそろ嗅ぐぞ……出たあ!」と。そこで、笑いが、もう。
奥泉 「よし、嗅いでる、嗅いでる」(笑)。(略)
しかし、その前にも笑える箇所はいろいろあるんですよ。弟子は「新しい思想を持った女」で、わたしは「新思想に対する理解ある男」なんですよね。(略)
恋愛だって自由にやっていいんだ、と。そこへ同志社大学の学生田中某が出てきて、「なんかあやしいやつだ、けどいいんだ。恋愛は自由なんだ」と。
いとう 「それを認められる自分なんだ!」と。
奥泉 「信じなくてどうする、信頼しなくてどうする!」ってシツコク書いてる。でも、つい本音が出ちゃう。「何をしたか解らん
いとう 信じてないじゃん!(笑) 花袋のオヤジ、わざとやってやがるな。
奥泉 最後のほうで女弟子が外泊したりすると、「ホウラ、見ろ!」みたいな感じになるのもおかしい。

物語は第二次世界大戦に突入し、ツダマンや幼なじみで月田川賞の選考委員でもある大名狂児だいなきょうじ(皆川猿時)も戦争に巻き込まれていく。
長らく徴兵されなかった葉蔵は当然戦争を感じさせないが、戦地にいてそれなりに大変な目にあったツダマンや狂児も、何だかんだご都合主義的に戦争を切り抜け、帰国できてしまう。

戦時中の描写に悲壮感がなくご都合主義的なのは、この物語がご都合主義なのではなく、松尾氏が文豪に対し「戦争のリアリティーが欠如している」と感じたからだ。

「世界の動向と、個人の中の宇宙が、ものを書く動機に必ずしも結びついてない。激動の時代に、半径50センチの周りのことにこだわっちゃってる。そういう人もいたんじゃないか。井伏鱒二にしろ太宰にしろ、戦争のまっただ中にいながら戦争のこと書いているイメージないですもんね」

朝日新聞2022年10月27日夕刊

だが、それだけではない。
ツダマンや葉蔵、狂児がご都合主義で描かれているのには別の理由がある。
それは冒頭に書いたとおり、この物語が『津田家の女中・オシダホキや縁のある人々からの視点で振り返る構成』になっているからだ。

その全貌が明らかにされるラスト数分前。
それまでほとんど喜劇のように展開していた「昭和初期の文豪の奇人譚」がその衣を脱ぎ、「時代的に虐げられた女たちの怨念」という本性を現す。
この怨念を一心に背負うのはツダマンの妻・数。
数を演じる吉田羊の狂気じみた演技に、それまでお気楽に笑っていた観客(特に男性)の顔は凍りつき、震え上がることだろう。


メモ

舞台『ツダマンの世界』
2022年12月10日 マチネ。@Bunkamuraシアターコクーン

本文で『文芸漫談』を引用したが、『蒲団』のほかに面白い作品が紹介されていたので、折角なのでここに引用しておく。

奥泉 (志賀直哉の)『暗夜行路』が笑えますよ。「謙作はこの頃だいぶ参ってきた」って書いてある(笑)。
いとう 「だいぶ参ってきた」、いいねえ!
奥泉 なんで参るのかというと、たんに小説が書けないんですよ。しかも書けない理由が……。(略)遊んじゃってるわけ。(略)妓楼とか行っちゃって、もう飲めや歌えや。(略)しばらく遊ぶと「このままではいけない」って反省する。で、引っ越したりして心機一転、小説を書こうとがんばるんだけど、しばらくするとまた参ってしまう。その繰りかえし。ふつう、そうそう参らないでしょ?(笑)

こんな謙作のキャラクターが普通に受け入れられるほど、当時の作家の奇行ぶりは当たり前のことだったのだろう。

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