映画『あみこ』(『ナミビアの砂漠』公開記念 アンコール上映)
2024年9月末、少し前に全国公開が始まった映画『ナミビアの砂漠』の公開記念として、ポレポレ東中野にて山中瑤子監督のデビュー作『あみこ』(2017年。以下、本作)のアンコール上映が始まった。
2019年初頭に本作を観たとき(@UPLINK吉祥寺)、凄くセンスが良いなとは思ったが、初見だったからか、正直物語の意味はあまりわからなかった。センスだけで意味なんか最初から無いのではとも思った。
或いは、「インスバイアされた」と云われる今村夏子の短編小説「こちらあみ子」(ちくま文庫『こちらあみ子』所収、2011年)を読んでから3年経っていて内容を覚えていないせいかとも思った。とはいえ、小説の方も意味がよくわからなかったのだが。
最近事あるごとにお世話になっている北村匡平・児玉美月著『彼女たちのまなざし 日本映画の女性作家』(フィルムアート社、2023年)を紐解くと、こう書いてある。
ということで、前回の反省も込めて小説をざっと(ちゃんとではないところが私のダメなところ)読んで映画館に出向いた。
個人的な感想としては、「社会的動物である人間が生存するための暗黙のルールの無視」が「インスパイア」されているのではないかと思った。
とはいえ、「あみこ」と「あみ子」は決定的に違う。
「あみ子」は、「ルール」の意味がわかっていない。それは、「ルールの意味がわからず、上手く適応できない」ということではなく、そもそも「ルール」がある、ということがわかっていない。だから、「あみ子」と組友や(両親を含めた)大人との齟齬が全く埋まらず、異端児扱いされ孤立している(この齟齬が小説を読みにくくしている(欠点ではなく作者の狙いだ)。で、「あみ子」がそれを理解するのはラスト、坊主頭の少年との会話においてだ)。
対して、「あみこ」は「ルール」の意味はわかっている(わかり過ぎるほどわかっているというのは、唐突で印象に残るダンスシーンの後、彼女が『日本人は、音楽で踊り出したりしない』とツッコむことからも明らか)。
だからこそ、それをあえて「無視」している(だから、普通の人には恐らく「あみこ」と「あみ子」は同じ振る舞いに見える)。
「あみこ」には、アオミくんが、自分と同じように「社会(世間)と闘っている人」に見えたのではないか。
「あみ子」は唯一自分と話をしてくれた(ように感じた)のり君に、一途に執着した。
「あみこ」は唯一自分の同志となってくれた(ように感じた)アオミくんに、一途に執着した。
しかし、「あみこ」の執着は、恐らく「恋」ではなっただろう。
同志が「理念」を捨てて逃亡したのだ。いや、「逃亡」ではなく「投降」したと言ってもいい。
「理念」の一粒さえ持たないような女のもとへ、「理念」という武器を捨てて、アオミくんは丸腰で投降したのだ(「何もかも捨ててもいいと思う日」に)。
そう考えると私の中で辻褄が合う。
つまり、「あみこ」が東京まで出向いたのは、アオミくんを総括するためだった。
結果、完全に「理念」を捨ててしまった彼に、「あみこ」はリンチを加える。いや、リンチではなく「組織を抜けたことの烙印」としての刺青だったのかもしれない。
メモ
映画『あみこ』
2024年9月29日。@ポレポレ東中野(上映後挨拶あり)
上映後の舞台挨拶に山中瑤子監督が登壇した。
山中監督はとても良い人で、質疑応答の際、『舞台上からだと凄く見下ろしてしまう』ことに恐縮し、舞台の縁に座って観客より少し高い目線で話をして下さった(質疑応答でも出ていたが、良い人に見える監督から『あみこ』や『ナミビアの砂漠』の「爆発した」主人公が生まれるというのは不思議だ。でも、よく凄惨な事件の犯人が近所の人から『普段は大人しくて、感じのいい人』と評されるのと同義で、監督も「爆発の出力口」を間違えれば……いや、失礼)。
ちなみに本作、監督によると『配信の話もいただくが、この映画を配信で見るのは……ということで、今のところ配信を許可することはありません』とのこと(唯一、TOKYO MX TVで不定期に放送されている「PFFアワード受賞作放映」枠で、過去に放送されたことがあるようだ。私は見逃した)。
つまり、現状では、本作が観られるのは映画館のみということになる。
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