原田マハ著『独立記念日』

誰にだって悩みはあります。そんなことはわかっています。
それなのに…

学校のこと。進路や将来のこと。友達のこと。好きな人のこと。
やりたいことがわからない、もどかしさ。やりたいことができない悔しさ。結果が出ない惨めさ、焦り。
「なんで、わたしだけ」

両親や周りの大人たちは、悩みなんかなく、しっかり生きているように見えます。
それか、悩む暇もないくらい、忙しく生きてように見えるかもしれません。

でも、そんな大人たちにも、ちゃんと(?)悩みがあります。
あなたの親だから、あるいは、あなたより大人だから、あなたに見せないように隠しているだけです。
嘘だと思ったら、原田マハという人が書いた『独立記念日』(PHP文芸文庫)という本を手に取ってみてください。

この『独立記念日』は、15ページほどの短い物語が集まった「短編集」です。正確に言うと「連作短編集」(あとで説明します)です。
ひとつひとつの物語に、それぞれ別の主人公が登場します。
みんな、あなたより年上の大人の女性で、それぞれが様々な悩みや迷いを持っています。

たとえば「バーバーみらい」という物語。

主人公のヨシザワさんは、東京郊外にあるアパートで独り暮らしをしている、同人誌にマンガを描いている漫画家です。ちなみに、天然パーマのヨシザワさんは同人誌仲間から、「小池さん」と呼ばれています。「おばけのQ太郎」というマンガに登場する、ラーメンばかり食べている小池さんに似ているからです。
その小池さん…じゃなくて、ヨシザワさんは、同人誌では人気があるのに、いつまでたってもメジャーデビューできない自分に悩んでいます。「限界を感じている」と言い換えてもいいでしょう。
「こんなもんかな」
メジャーデビューできなくったって、同人誌では人気があるのだから…

ヨシザワさんには、気になっていることがあります。
それは窓から見える、不思議な光です。ヨシザワさんは、今描いているマンガと重ね合わせ、こんな空想をします。

 ああ……あれは、おれの故郷の星が発している微量の電波を受信して、自動発光する装置(デヴァイス)なんだ。
 って、お前の故郷……超惑星ssγⅡは、二千六百万光年も離れてるんだろ?それを受信できるのか、あのちっぽけなデヴァイスが……?
「あの光が途切れたとき……そのときが……おれの故郷の……消滅の……瞬間なんだ……」

ヨシザワさんは窓の外を見て驚きます。
「あの光」が消えていたのです。

故郷の、消滅の、瞬間

気が付くとヨシザワさんは、外に出て「あの光」があった場所を探していました。
でも、見つかりません。諦めようとしたとき、なんと、再び「あの光」が見えたのです。
「あの光」は、古ぼけた理髪店のサインでした。
ヨシザワさんが理髪店の前に着いたとき、中からおばあちゃんが出てきました。家を出たきり行方がわからない孫娘が帰って来たと思ったのです。
ヨシザワさんは、このおばあちゃんと親しくなります。
おばあちゃんの名前は「美蕾(みらい)」といいます。
孫娘の名前は「かこ」。かこさんは偶然にも、ヨシザワさんと同じ、漫画家志望でした。

「バーバーみらい」の後は、「この地面から」という物語です。

主人公の名前は「カコ」。作者ははっきりとは書きませんが、どうやら、みらいおばあちゃんが待っている「かこ」さんのようです。
かつて漫画家志望だったカコさんは、メジャーはおろか、ヨシザワさんのように同人誌にマンガを描くこともできず、今は、静岡県の自動車工場で働いています。

ある日、カコさんは、ネットの掲示板(まだSNSがなかった時代です)で「バーバーみらい」というマンガが評判になっていることを知ります。
そのマンガを買いに行きますが、売り切れていました。
おばあちゃんのお店に違いない。おばあちゃんのお店のことを、あたしじゃなくて、他の誰かがマンガに描いている。

なぜなんだろう、敗北感がひりひりと全身を包んでいた。

敗北感を持て余したカコさんは、公園へやってきます。

「気になりますね」
 突然、頭上で声がした。あたしは驚いて顔を上げた。
 若い女性があたしの目の前に立っている。小さな女の子を抱っこしている。あたしは首を傾げた。
「え……何が、ですか?」
「その絵の続き。なんだか、マンガの最初のひとコマみたい」
 あたしは、自分の足もとに視線を落とした。
 いつのまにか、あたしは割り箸の先で絵を描いていた。デフォルメした、蟻ん子の絵。吹き出しに『すべてはこの地面から始まったんだ』と書いてある。あたしは、自分の目をこすった。
 あれ? これ、あたしが描いたのかな?
「それで、どうなるんですか。その蟻さんは?」
 若いお母さんが、そう訊いた。(中略)。あたしはあわてて、「いや、どうもなりません」と答えた。
「そうなんですか? なんやろ、続きが知りたいな」
 彼女は微笑んだ。あたしは、自分の心臓が、とくんと鳴るのを聞いた。

帰宅したカコさんは、ネットの掲示板に書き込んだメッセージに、レスがきているのに気がつきます。

 カコさん、私の掲示板にカキコありがとう(中略)。
『バーバーみらい』は、引きこもりの女の子が、おんぼろ理髪店のおばあちゃんと知り合って、生きがいをみつける話です。読んでみてください。そして連絡してあげてください。 あなたのおばあちゃんに。

レスの送り主のハンドルネームは「ラーメン小池」でした。
カコさんは、そのレスに背中を押されて、おばあちゃんに会いにいくことにします。

もうおわかりですね。
前の物語に出てきた人が、次の物語の主人公になる。次の物語に、前の物語の登場人物が出て来る。
ひとつひとつの物語には違う主人公がいるけれど、すべての物語はどこかの物語の登場人物たちで繋がっている。
これを「連作短編集」といいます。
もちろん、カコさんの物語の後の主人公は、公園でカコさんの描いた蟻ん子に興味を持ってくれた若いお母さんです。
この本には、24話の物語が収録されています。主人公は23人。
数が合わない? そうです。最終話は作者からのプレゼントです。誰かがもう一度登場していることは間違いないのですが、誰でしょう? もしかしたら一人だけじゃないかもしれません。

ところで、私はさっき「ラーメン小池」ことヨシザワさんのレスが「カコさんの背中を押した」と書きました。
でも、私は、本当のきっかけを作ったのは、公園で出会った若いお母さんだと思うのです。漫画家の夢を諦めていたカコさんの絵を、若いお母さんは直接褒めてくれたのです。
「誰か知らない人が、あたしの絵を褒めてくれた」
カコさんは、ほんの少しかもしれませんが、自信を取り戻したはずです。
自信を取り戻さなければ、ヨシザワさんが背中を押しても前へは進めなかった(おばあちゃんのところに戻れなかった)のではないでしょうか。

でもきっと、若いお母さんは、そんなことがあったことなんて、すぐに忘れてしまうでしょう。たまたま目にした蟻ん子の絵に興味を持って、描いていた女の子に話しかけた、ただそれだけのことです。それで、女の子が自信を取り戻したなんて、思いもよらないでしょう。

もしかしたら、あなたも私も、意識していない所で、カコさんのように見知らぬ誰かから、自信を取り戻すきっかけをもらったり背中を押されたことがあるのかもしれません。
反対に、若いお母さんのように、思いもよらない所で、見知らぬ誰かの自信を取り戻させたり背中を押していたり、したことがあるのもしれません。
見知らぬ誰かどうしが、自信を取り戻させたり、背中を押していたり…
そう考えると、世の中が少し、素敵に思えませんか?

作者の原田マハさん自身、見知らぬ誰かに背中を押されて作家になりました。作家になる前は「インディペンデント・キュレーター」という、原田さん曰く「美術館などに所属せず、展覧会の企画・実施をするプロデューサーとディレクターを兼ねたような職業」に就いていました。
ある時、旅行先である沖縄の旅館の女将から勧められて、予定になかった伊是名島いぜなじままで足を延ばします。
その島の浜辺で、おじさんが投げたサンゴの塊を海に飛び込んで取ってきていた犬を見かけます。興味を持った原田さんはおじさんに話しかけます。

「このワンちゃん。なんていう名前ですか?」
「カフーです」
「おもしろい名前ですね。どういう意味ですか?」
「沖縄の言葉で『幸せ』という意味ですよ」
その瞬間に、なにやら霊感じみたものが、すとーんと私の中に落ちてきた。
沖縄の離島の浜辺で、「幸せ」という名の犬に出会ってしまった。
まさにこの瞬間、わがデビュー作『カフーを待ちわびて』が芽吹いたのだった。
この島人おじさん、名嘉さんのネーミングセンスが、私の作家人生を決定づけたと言ってもいい。

『フーテンのマハ』(集英社文庫)より引用
※改行は引用者

きっと、このような経験をした作者だから、「独立記念日」という物語が書けたのだと思います。

さて、長くなりましたが、最後におさらいをしておきましょう。
この本を読んでわかること。
1.大人もみんな悩んでいる
  残念ですが、あなたも(私もですが)何歳になっても悩み続けるのです。
2.世の中、知らない所で誰かが変わるきっかけを作ったり、受け取ったり している
だから、たとえ何歳でどんな悩みを抱えたとしても、世の中を信じてください。決して、心を閉ざしたり、社会から身を隠したりしないでください。

……あっ、言い忘れていました。
おわかりのとおり、この本は、最後に犯人が明かされたり、謎が解けたりといったジャンルのものではありません。何度でも読めるのです。
あなたが大人になって、何かに悩んだり迷ったりしたとき、この本を開いてみてください。そして、勇気づけられてください。物語は、主人公たちが一歩踏み出す瞬間ーそれは彼女たちの「独立記念日」-を描いているのです。

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