夜を往く者たち~舞台『ボイラーマン』~

夜は人を狂わせる。

自己陶酔だけの素人小説の書き出しみたいだが、実際「夜」というのは、そういった魔力みたいなものを持っている。
ある者は他者との密な関わりに気が狂いそうになり、ある者は絶望的な孤独に気が狂いそうになり、たまらず夜の街に飛び出してしまう。
人気のない街、明かりが消えた家々を見ながら、誰でもない「ただ自分」が確かに存在することに悦びを覚え、同時に、自分独りしかいないことに絶望する。
そして時折すれ違う人たちと自分を重ね、不思議な連帯を感じたりする。

舞台『ボイラーマン』(赤堀雅秋作・演出。以下、本作)は、そんな話だ。
ただ夜をく名も知らぬ者たちがすれ違い、時折、刹那の関係を持つ、ただそれだけの……

冬、夜が更けつつある頃。
古いマンションを挟むようにY字になった二股の道があり、左には石段、右には細い路地が続いている。
電話ボックス、自動販売機、ごみ集積所、放置自転車。
何処にでもある片隅の光景に、一人、喪服の女(安達祐実)が現れた。
続いて石段の上からは中年男(田中哲司)。
互いをやり過ごした後、残った男は煙草に火をつけ、それをマンションの住人である中年女(村岡希美)が見咎め、糾弾する。
体調の悪そうな警官(赤堀雅秋)が現れ、中年女とのやりとりから、この町で連続放火事件が起きていることがわかる。
さらには奇矯な言動の老人(でんでん)と、彼を庇護する様子の小柄な女(井上向日葵)、喪服の女のつれの男(水澤紳吾)、マンションに住むキャバクラ勤めの若い女(樋口日奈)と彼女を追い回している様子の若くもない男(薬丸翔)という手近な関係以上には繋がるはずのない9人が、その夜、偶然Y字路の周辺で行き会った。
そこに行かねばならない、居なければならない理由はきっと誰にもなかったのに。
消防車のサイレンが聞こえてくる。
夜空が明るくなるほどの火の手が上がり、町を赤く照らし出す。
中年男は甲州街道を見出せるのか。
彷徨う9人は夜の涯てを越え、朝に辿り着けるだろうか。

本作公式サイト「STORY」

夜を往く者たちは、素姓を持たず、匿名だ。だから本作の9人にも名前はない。時に自ら名乗ったりもするが、たとえそれが本名だったとしても、その者を何も説明していない。

夜を往く者たちに目的はない。目的地もルートもない。だから本作は明確に説明できる「筋」がないし、明確に説明できる「(物語の)意図」もない。

「意図」は物語ではなく「作者」にある。
明らかに本作は、これまでの赤堀作品とは違っている。
まず、こんなに「純粋な笑い」が観客から漏れることはなかったはずで、それはつまり、登場人物たちが明確な「闇」を抱えていないことに通じる(そういった「闇」は、放火魔の心の「闇」と連続放火による住民の不安といった,
「放火」という一点に収斂されている)。

本作パンフレットで赤堀自身が明かしている。

だが今回は、小さなコミュニティの中でドロドロと渦巻き、人をからめ取るようなし難い(引用者註:「救いがたい」「どうしようもない」といった意味)人間関係といった、自分にとって既視感のある設定や世界観で書き始める気にはなれなかった。これまでは踏み込むことのなかった、未知の領域で筆を走らせてみたい。そんな想いと、その挑戦を恐れる気持ちとの間でさらに少し揺れ、結局は後者の挑戦に手を伸ばしたことが『ボイラーマン』の第一歩だ。

台本が毎日10数ページずつ書き進められたという本作は、だからつまり、作者の赤堀自身が「夜を往く者」であったということだ。
その心境を「喪服の女」が語る。

それから…ただひたすら知らない住宅地を二人で歩き続けて、特に何も面白い発見とかがあったわけでもなくて、「ああ、まだここの人、起きてるんだ」とか、「あ、こんな所に畑があったんだ」とか、誰かがお風呂に入ってる匂いがしたり、必死な形相でジョギングする女の人とすれ違ったり、私この辺、土地鑑あったはずなんだけど、でもやっぱり自然に同じ道しか選ばないから、知らない道は当然無限にあって、どこを歩いてても当然初めての景色ばっかりで、だからといって特に面白いことは何もなかったんだけど、でも気付いたらどんどんどんどん歩いてて、この人はこの人で勝手に歩いてて、なんか私……すごい楽しくて…

『悪女になるなら月夜はおよしよ素直になりすぎる/隠しておいた言葉がほろりこぼれてしまう』と歌ったのは中島みゆき(「悪女」中島みゆき作詞、1981年)で、本作は降雪の予報がでていて月夜ではないのだが、隠しておいた何かが(ほろりこぼれてしまうのではなく)暴かれてしまうのが「夜」というもので、それが、これまでの赤堀作品では『度し難い』奴らが(ある意味演劇的わかりやすさで)露呈していたものが、本作では一見「正しい」とされる「中年女」が暴かれる、という形になっている(そしてそれが、一見「どうしようもない」とされそうな奴らの「正しさ(或いは優しさ・純粋さ)」によって暴かれる、ということも)。

恐らく赤堀は、一見の「正しさ」の中に人間の狂気を見たのではないか。そしてその一見の「正しさ」は、人間なら誰もが持っているもので、もちろん自身の中にもある、と思っているのではないか。
それは「中年女」が赤堀演じる「警官」に向かって『53歳』と言うことからも伺える(1971年8月生まれの赤堀は、だから数カ月後に53歳になる)。

中島みゆきが歌うように夜は「隠しておいた」何かがこぼれてしまうが、夜を往く者たちはこぼれたものを拾うことなく、朝になれば「何も隠していない、隠すものなどない、いつもの自分」に戻る。
本作においてそれを象徴するのが、「喪服の女」が探しているピアスである。
朝になればピアスは揃っている。失くしたと思ったのは、夢だったのではないか。あの日「中年男」と街を彷徨ったのは夢ではなかったか……

「老人」は実在したのか。彼の言葉は戯言なのか、神の啓示なのか……

メモ

舞台『ボイラーマン』
2024年3月9日 マチネ。@本多劇場

酔っ払って終電を逃したり乗り過ごしたりして、数時間かけて歩いて帰宅したことが、何度ある。夜の街は「不安」というより「不安定」だ。
昼間であれば何とも思わないのに、ただそこに他者がいる、というだけで世界が違って見える(酔いのせいもあるだろうが)。
私は帰宅という目的も目的地もある「夜を往く者」ではあったが、見知らぬ道や街を歩きながら、「家にたどり着けるのか」といった現実的な不安の中に、開放感や何故か恍惚感を覚えてもいた。
本作を観ながらずっと、何度も経験した「夜たち」を思い出していた。

「夜を往く」という表現は、中島みゆきさんのアルバム『夜を往け』(1990年)から拝借しました(本作を観ながら「悪女」の歌詞が頭に浮かび、そこから『夜を往け』を想起したが「悪女」はアルバム曲ではない)。


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