夜を往く者たち~舞台『ボイラーマン』~
夜は人を狂わせる。
自己陶酔だけの素人小説の書き出しみたいだが、実際「夜」というのは、そういった魔力みたいなものを持っている。
ある者は他者との密な関わりに気が狂いそうになり、ある者は絶望的な孤独に気が狂いそうになり、たまらず夜の街に飛び出してしまう。
人気のない街、明かりが消えた家々を見ながら、誰でもない「ただ自分」が確かに存在することに悦びを覚え、同時に、自分独りしかいないことに絶望する。
そして時折すれ違う人たちと自分を重ね、不思議な連帯を感じたりする。
舞台『ボイラーマン』(赤堀雅秋作・演出。以下、本作)は、そんな話だ。
ただ夜を往く名も知らぬ者たちがすれ違い、時折、刹那の関係を持つ、ただそれだけの……
夜を往く者たちは、素姓を持たず、匿名だ。だから本作の9人にも名前はない。時に自ら名乗ったりもするが、たとえそれが本名だったとしても、その者を何も説明していない。
夜を往く者たちに目的はない。目的地もルートもない。だから本作は明確に説明できる「筋」がないし、明確に説明できる「(物語の)意図」もない。
「意図」は物語ではなく「作者」にある。
明らかに本作は、これまでの赤堀作品とは違っている。
まず、こんなに「純粋な笑い」が観客から漏れることはなかったはずで、それはつまり、登場人物たちが明確な「闇」を抱えていないことに通じる(そういった「闇」は、放火魔の心の「闇」と連続放火による住民の不安といった,
「放火」という一点に収斂されている)。
本作パンフレットで赤堀自身が明かしている。
台本が毎日10数ページずつ書き進められたという本作は、だからつまり、作者の赤堀自身が「夜を往く者」であったということだ。
その心境を「喪服の女」が語る。
『悪女になるなら月夜はおよしよ素直になりすぎる/隠しておいた言葉がほろりこぼれてしまう』と歌ったのは中島みゆき(「悪女」中島みゆき作詞、1981年)で、本作は降雪の予報がでていて月夜ではないのだが、隠しておいた何かが(ほろりこぼれてしまうのではなく)暴かれてしまうのが「夜」というもので、それが、これまでの赤堀作品では『度し難い』奴らが(ある意味演劇的わかりやすさで)露呈していたものが、本作では一見「正しい」とされる「中年女」が暴かれる、という形になっている(そしてそれが、一見「どうしようもない」とされそうな奴らの「正しさ(或いは優しさ・純粋さ)」によって暴かれる、ということも)。
恐らく赤堀は、一見の「正しさ」の中に人間の狂気を見たのではないか。そしてその一見の「正しさ」は、人間なら誰もが持っているもので、もちろん自身の中にもある、と思っているのではないか。
それは「中年女」が赤堀演じる「警官」に向かって『53歳』と言うことからも伺える(1971年8月生まれの赤堀は、だから数カ月後に53歳になる)。
中島みゆきが歌うように夜は「隠しておいた」何かがこぼれてしまうが、夜を往く者たちはこぼれたものを拾うことなく、朝になれば「何も隠していない、隠すものなどない、いつもの自分」に戻る。
本作においてそれを象徴するのが、「喪服の女」が探しているピアスである。
朝になればピアスは揃っている。失くしたと思ったのは、夢だったのではないか。あの日「中年男」と街を彷徨ったのは夢ではなかったか……
「老人」は実在したのか。彼の言葉は戯言なのか、神の啓示なのか……
メモ
舞台『ボイラーマン』
2024年3月9日 マチネ。@本多劇場
酔っ払って終電を逃したり乗り過ごしたりして、数時間かけて歩いて帰宅したことが、何度もある。夜の街は「不安」というより「不安定」だ。
昼間であれば何とも思わないのに、ただそこに他者がいる、というだけで世界が違って見える(酔いのせいもあるだろうが)。
私は帰宅という目的も目的地もある「夜を往く者」ではあったが、見知らぬ道や街を歩きながら、「家にたどり着けるのか」といった現実的な不安の中に、開放感や何故か恍惚感を覚えてもいた。
本作を観ながらずっと、何度も経験した「夜たち」を思い出していた。
「夜を往く」という表現は、中島みゆきさんのアルバム『夜を往け』(1990年)から拝借しました(本作を観ながら「悪女」の歌詞が頭に浮かび、そこから『夜を往け』を想起したが「悪女」はアルバム曲ではない)。
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