舞台『蜘蛛巣城』

物語の中盤、妻が叫び、それに気づいた警護の侍2人を主人公の武時が斬った時、全身に鳥肌が立った。
気も狂わんばかりの恐怖に憑かれて刀を振る早乙女太一を、初めて観た。

舞台『蜘蛛巣城』(赤堀雅秋演出。以下、本作)は、シェイクスピアの名作『マクベス』を日本の戦国時代に置き換えた、黒澤明監督の映画(1957年公開)をベースに2001年に新橋演舞場で上演された芝居(斎藤雅文脚本、本作でも共同脚本として携わっている)の改訂上演となる。

『マクベス』は、「王となるが、しかし、その座も長く続かず次の者に取って代わられる」という魔女の予言に翻弄された主人公が、計略のために次々と人を殺した自責と、「次の者に取って代わられる」ことへの恐れから来る猜疑心によって、妻と共に身も心も壊れてゆくというストーリーで、本作ももちろん、それに則っている。

が、しかし、本作はマクベス=鷲津武時(早乙女太一)と、マクベス夫人=浅茅(倉科カナ)が狂気に堕ちていくだけではない。
マクベス同様の結末になるかと思われた最終盤、ほぼ全ての者が己の中に巣くう蜘蛛の巣に絡め捕られ(或いは、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を想起するように)、狂気に堕ちるという、まさに赤堀的「救いの無さ」が露呈する(狂気に堕ちなかったのは、赤堀自身が演じる百姓だけ)。
だから本作は、赤堀的「後味の悪さ」を残して終幕する(これは批判を意味しない。むしろ観客は赤堀作品にそれを求めているはずだ)。

本作(黒澤作品)において、舞台を日本の戦国時代に翻案したのは素晴らしいアイデアだった。
とりわけ、セリフの全てが「端正な侍言葉」で作られている効果が大きく、これにより、本作は「日本の古典」となり、「端正な侍言葉」で朗々と語られるセリフはシェイクスピア劇の醍醐味である「独白のカタルシス」となり、観客を陶酔させる。

「きれいはきたない、きたないはきれい」
『マクベス』の有名なセリフだが、本作でも魔女=物の怪の老婆(銀粉蝶)によって何度も繰り返される。

「きれいはきたない」
倉科カナ演じる浅茅が夫・武時に予言を信じるよう囁く時、或いは、その白い手から血が拭い取れない幻覚を見る時、観客はその言葉を思い出す。

「きたないはきれい」
雪が降る鉛色の重たい空を見上げ「きれいな空だ」と呟いて果てる、早乙女太一演じる武時に、観客はその言葉を思い出す。

メモ

舞台『蜘蛛巣城』
2023年3月11日 マチネ。@KAAT 神奈川芸術劇場 ホール

私は個人的に早乙女太一の殺陣は、「日本一綺麗で、日本一速い」と思っている。
だから、彼の殺陣姿を、いつも無条件でうっとり見惚れてしまう。
赤堀雅秋という人は、そんな早乙女太一の違う面を見せてくれる。
本作では、本稿冒頭に書いたように「気も狂わんばかりの恐怖に憑かれて刀を振る」という、そんな殺陣があるのか!、という姿を見せてくれた。
『世界』(2017年上演)では、「やる気のない、今どきの若者(しかも、広瀬アリス演じるデリヘル嬢に惚れる)」という、「本当に、あの妖艶可憐な早乙女太一なのか?」という姿を見せてくれた。
今後も彼には赤堀作品で違う姿を見せて欲しいと、個人的に思う。


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